テーマ:近代化遺産を歩く(146)
カテゴリ:近代化遺産・検見川送信所
5時ごろ、地震が起こり、すっかり目が覚めてしまった。震度3だというが、建物がきしむ音がした。
昨日夕方、検見川送信所の写真を撮りに行ったが、方角的にうまく光をとらえられなかったので、起きたついでに朝の送信所を撮ってきた。 なんだか古城のようだ。 「検見川無線史」に載っている1926年開局当初の局舎 今ではすっかり落葉樹が正面を覆っている。このおかげで、最初、ここが正面であることが分からなかった。 さて、今日は送信所開局以前のことを書こうと思う。 というのも、検見川送信所の開局には地震が少なからず関係しているからだ。開局から3年さかのぼる、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災だ。 19世紀後半の通信はイギリスが掌握していた。世界各地に植民地を持つイギリスは海底線を使い、連絡を取っていた。 しかし、1895年9月、イタリア人マルコニーが6km間をモールス符号による無線電信に成功し、やがて、実用化されていくと、時代は有線から無線へと変わっていった。 ちなみに、あの「タイタニック号」の遭難事故は1912年。この事故は無線があったからこそ、生存者もいた。無線がなければ、全員死亡していたことだろう。 その後、各国は大規模な無線局を作るなど、イギリスに追いつけ追い越せだった。 日本といえば、千葉・銚子に銚子無線局を持っていたものの、大電力による無線局はなく、諸外国に大きな遅れを取っていた。そこで、大無線通信計画が出された。 計画案ではアメリカ方面、ヨーロッパ方面、対植民地、東南アジア、中国大陸方面と計5方面の無線局建設があげられたが、総額は最低でも2~3000万円。とても国家財政ではまかないきれないと、実際はヨーロッパ局、外地局、国内局の3つに絞られる。 しかし、関東大震災で被害総額は100億円を越えると分かり、さらに計画は縮小。外地局と国内局は逓信省が、そのほかは民間の資本で建設することになった。 この外地局が岩槻と検見川送信所だった。無線電信施設費の予算は100万円。 条件は東京無線電信局から近く、地価が安い広大な平坦地。しかも、電力を取りやすい。 当時、電力は電力会社が集中的に行うのではなく、各企業が独自に供給していた。検見川の場合は京成電鉄があり、電力の確保も十分だった。 敷地総面積は23,788.06坪。検見川から稲毛に及び、地主も50人を超えたことから、買収は難航したが、当時の町長だった斉藤清次郎氏ら土地の有力者の尽力によって、大正12年12月27日に登記を終えた。 設計は逓信省経理課経理局営繕課が担当。「検見川無線史」には、その名前は出てこないが、設計者は逓信省のエース建築家・吉田鉄郎氏が手がけた、とされる。 このシンプルな概観は、関東大震災の影響で予算が少なかった影響かもしれない。 これを書いている間も、大きな揺れが。怖かった。 ※参考文献 「検見川無線史」 「千葉県検見川町鳥瞰図」ほか 写真は30Dで撮影。 キヤノンEOS 30Dボディ【送料無料】 特別価格 112,000円 (税込117,600円) 送料込 去年の日記は? 2006/8/16 パーゴラ付の物置の改造PART3 扉のゆがみを直す お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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