前長野県知事田中の本質は?
私は一般的な国民だろうし、特定の人を論(アゲツラ)って悪口を言って楽しむ人間ではないと自分で思っているのだが、事、前長野県知事は理由は分からないが虫が好かない。そして公人だから、ボロクソに書く事になってしまう。 所がこの一人新聞読者の数名の方から反響を貰って、私が嫌う本質がやっと自分で分かった。それは彼がホモかどうか知らないがホモだと指摘され、何となく私が嫌う本質が見えたのであった。私は同性愛が嫌いである。異性は好きで好きで夢にまで見るが、同姓とのセックスなど、吐き気を模様する。 今の日本で、特に首長の選挙では「私はホモです」と公言して当選することは難しい。だけどホモを告白せず、ホモの性質だけを、つまり既存の価値観を否定し、権力に反抗し、平和と自然を愛するという優しい態度を見せるだけで、薄っぺらな国民の支持を得る可能性は高い。そんな条件で彼は長野県知事になってしまったのでなかろうか。 反響を頂いた一人は「隠花植物は何処の世界にも有るが、日陰で生きて行くべきで、表に出れば枯れてしまう」と言われた。つまり田中前知事はホモだから、政治という表に出るべきでないと言う意見であった。もう一人は「彼はオカマみたいで、気持ちが悪い。いい歳こいて、やたらに人形ぶらさげたり妙なパフォーマンス」と言っていた。極めつけ反響は「彼はオカマだ」と断定していた。 そのような反響を貰い、私が彼を受け入れられない理由がやっと判明したようである。 数年前、まだ司馬遼太郎が生きていた時だが、現代アメリカを描写した司馬遼太郎のエッセーを読んだ事あった。その中に同性愛者が集まって作った町に入ると、不思議な事に非常に平和な気分になると書いた文があったように記憶する。 私には分からないが、子孫の増殖を否定する生活になると、異性を獲得しようとするギラギラした闘争心も欲も無くなり、周囲との諸々の諍(イサカ)いを拒否する生活になるようで、不思議なホンワカした愛の社会が出現するのではなかろうか? まあどっちにしても、アメリカみたいに、田中本人が「私はホモです」と告白していないから、前知事が正真正銘のホモかどうかは、それぞれが考えれば良いだけである。