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カテゴリ:自分のこと
今日は社会への適応性についての自分史。
幼少時代:友達よりも、兄とよく遊ぶ。場所は家の近くの河川敷が多かった。暗くなるまで時間を忘れて本気で遊ぶ感覚があった。 小中学校時代:学校には基本的に行きたくなかった。親友もいたけど、暴力的な奴やら、いやな奴らもいて、ひどいいじめをうけていたわけではないが、それなりに学校は戦場だった。 一方、母や親せきたちの仕事ぶりを見て、仕事って我慢してやらなきゃいけないのかな、人生ってそんなにつらいものなのかな。働きたくないな、と思っていた。 高校時代:進学校だったからか、暴力的な奴は極端に減り、少しだけ平和な学校生活。だけどやっぱり、相変わらずそんなに楽しくはなかった。一方で勉強はけっこう好きで、勉強はある意味逃げ場でもあった。 大学時代:寮生活。サークルと部活に入り、遊びまくり、飲みまくり。はっちゃけ北大生。毎日本気で楽しんだ数年間。それまでのもやもやを考えると、ここで一気に花開いた感じ。こういう人生が続くといいなと思った。 2000年4月:4年生。3年間遊んできて知能が全く進化していないことに焦りを覚え、勉強に目覚める。働く事が怖い。社会に出ることが怖いと思っていたのと、勉強・研究のおもしろさに目覚めたことから、大学院への進学を決める。 大学院時代:研究室で毎日を過ごす。自分のペースで毎日を過ごせて超快適。友達も近くにいて楽しい。 2002年:進路選択。ドクターに行く道と、就職する道。ドクターに行って研究を極めたい気持ちがあったが、行くと就職がなくなるという定説を恐れた。仕事や社会に対する恐れも徐々に小さくなってきたので、そろそろ仕事もしてみようかなという気になってきた。ということで就職を選択。 2003年4月:東京電力入社。ここから6年間は現場勤務。一気に小中学校時代に戻ったような、粗暴な人たちの多い環境。全くなじめず、入社2年目に適応障害。 2006年10月:妻と結婚。家族ができたことで、「死にたい」という気持ちは完全に消えた。それまではことあるごとに、そう思っていた。 2009年7月:夢の研究所への異動決定。粗暴な人たちがかなり減り、人という意味では比較的働きやすい環境に。 2010年:北海道への移住に向けて、セミナーを受ける。70万円を使うも、いまいち世界が違う人たちばかりで、すぐにやめる。 2010年10月:大学時代に恩師に誘われたこと、ドクターを目指したいという気持ちがよみがえったことから、社会人ドクターで再び北大生に。やはり大学の自由度は、社会人と比べると半端でないことに気づく。楽しかった大学時代がまたよみがえってくる。 2012年4月:9年間勤めた会社を辞めて念願の北海道移住、社会人ドクターから、純血の北大生に。10歳ほど年下の後輩たちと、大学院時代同様、相当楽しい1年間を過ごす。 2013年4月:再就職。函館での教員生活。自分でコントロール時間が増えるものの、仕事も大量。 2014年3月:再び2度目の適応障害。組織に所属すること自体が自分には合わないのではないかと思いはじめる。35年ローンを組める人と違い、自分は常にいつ働けなくなるかわからない不安を抱えている。 2014年度の1年間:激務により、2度の居眠り運転。死を意識。そして、もし事故を起こしたら、教員をがんばっていたことを全く評価されずに、ただバカだと思われるだろう。自分を守れるのは自分しかいないことに心からきづく。 2015年4月:育休スタート。自分はやはり、いわゆる一般的な人とは相当異なることを自覚。このまま自分らしく生きようと思う。 うーん、書いてみたけど、意外に難しかった。 もっと色々あるような気もするけど。 やっぱり35年ローンを組める人というのが存在して、そういう人は勤めることを当然のことと考えているようで。 ストレスがたまったら発散すればよいという感じで。 おれは人生そのものにストレスが存在することが嫌で、我慢するのが嫌で。 「勤めて安定」という考えもよくわからなくて。 おれにとっては、「勤めたら(精神が)不安定」。 今は、育休&勤めをやめて、安定した。 やっぱり自分にとっては勤めることは、命を削っている感覚がある。 組織に所属しながらそうでない働き方をすることは、できないだろう。 2か所(研究所も含めると3か所)の組織に所属して自分の中の結論が出た。 こういう人、多分人口の1%ぐらいはいるだろう。 この想いを素直に発信しつつ、そういう人たちと共感していこう。 そしてそういう人でも生きやすい社会を作っていこう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.05.30 17:45:27
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