カテゴリ:塾
先生や講師と呼ばれる職業・・・
そのしっかりとした肩書きとは裏腹に、 非常に危険な側面をもった職業ではないかと考える。 僕の感じる危険な側面はひとつではない。 長くなりそうなのでその中のひとつを書いてみる。 そのひとつとは・・・ ”限られた教室という空間に大人が一人しかいない世界に住んでいる”ということだ。 普段の生活の中では、どんな大人でも、周りにはそれを取り囲む多数の大人が存在する。 ここでの大人とは良識を備えた社会人全般を指す。 そんな大人に囲まれ、ある意味監視の目にさらされているのが世の中の常。 そのプレッシャーの中で社会人は切磋琢磨している・・これがいわゆる普通の社会であり生活だ。 大人も子どもも未熟であることは同じであるのだから、何らかの抑制力が働いている世界こそが程よい世界だといっていい。 これである種のルールなり思考なり統制なり・・様々なバランスがとれているはずだ。 程よいプレッシャーは、良識のある且つ理性の働く社会を作り上げているといってよいだろう。 ところが、残念なことに”限られた教室という空間に大人が一人しかいない世界に住んでいる”先生にはこれがない。 授業中、教室に子どもが大勢いようとも、基本的に大人はたった一人、自分だけなのだ。 ここに先生として責の重さがある。 この講師が良識や理性を失ったとしてもこれを抑制するものがない。 どんな横柄な態度をとったとしても、どんな未熟な発言をしたとしても、教室や学校といった限られた空間ではそれを咎める者がいない。 つまり限られた空間での王様なのだ。 よく「先生という職業の人間は、社会人としての常識がない」という話を聞く。 いわゆる民間のサービス業に従事する僕の友人達はしばしば、先生という肩書きの人達の横柄な態度、非常識な態度を嘆いている。 (彼らも先生という人種が”嫌い”なんていう先入観は持っていないだろうに。) 限られた世界の王様の脆さ。 これが僕の感じる危険な側面のひとつだ。 社会人(さらには一人間)としての良識の欠如が、子ども達の成長に対して、何らかの悪影響を及ぼすようであってはならない。 危険さをはらんでいるという意味で、先生という職の”責の重さ”を感じずにはいられない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
April 5, 2006 02:41:36 AM
|
|