ルーヴル美術館 レンブラントの自画像 レンブラントの生涯 レンブラント所縁の地への・・・行き方とは?
パリ『ルーヴル美術館』3階17世紀のオランダ絵画も最後の大御所を残すのみとなりました♪レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン Rembrandt Harmenszoon van Rijnこの名前を記すだけで今日は・・・嬉しくてたまりませんレンブラントについて、もっと深く知りたいと考えております。レンブラントとレンブラント工房の作品が並びますネーデルランド連邦共和国、現在の『オランダ』オランダ黄金期を代表する画家レンブラントは光りの画家・光と影の画家光りの魔術師・光と影の魔術師と言われますネきらりのわがまま「パリ旅日記」・・・第139回Rembrandt Harmensz.van RIJN,dit REMBRANDTLeyde(Pays‐Bas),1606‐Amsterdam(Pays‐Bas),1669Autoportrait au chavalet(1660)54歳ころパリ『ルーヴル美術館』2018年4月28日ほしのきらり。撮影レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン・・・とは?Rembrandt Harmenszoon van Rijn通称『レンブラント』として日本人にも、とても有名な画家1606年7月15日-1669年10月4日(63歳没)【バロック期】を代表する有名画家は、オランダの「フェルメール」イタリアの「カラヴァッジオ」フランドルの「ルーベンス」スペインの「ベラスケス」バロック期を代表する画家『レンブラント』はヨーロッパ美術史における重要人物なのです17世紀オランダ絵画黄金期に活躍した最大の巨匠!「レンブラント」の画風は・・・スポットライトを当てたような強い光による明瞭な明暗対比や赤褐色または、緑褐色を基調とした輝くような色彩場面状況を明確に伝達する劇的な運動性登場人物に示される深い精神性を帯びた表情。レンブラントは・・・1606年7月15日、オランダの「ライデン」で生まれるLeidenへの行き方は? アムステルダム中央駅から「デン・ハーグ方面」の列車で約35分 デンハーグ中央駅または、HS駅から約10分。父は、製粉業を営む中流階級で母は、都市貴族でパン屋を営む一家の娘であったレンブラントは、8番目の子どもである。父は、製粉の風車小屋をライデンを流れる旧ライン川沿いに所有していたので一家の性「ファン・レイン」は・・・ライン川の van Rijinを意味するレンブラントは・・・1613年、ラテン語学校に入学1620年(14歳)ラテン語学校から飛び級で名門「レイデン大学」入学(大学は地図で見ると歩いて行けそうに近いですネ)兄たちは父の製粉業を継ぎ父は、レンブラントに法律家を望むも大学を辞めて翌年、画家を目指すが当時は、美術学校がなくイタリア留学経験をもつ歴史画家「ヤーコブ・ファン・スヴァーネンブルフ」に弟子入りし3年間絵画技法から解剖学まで必要な技能を学ぶ。1624年(18歳)アムステルダム「ピーテル・ラストマン」に半年間、師事ここでカラヴァッジョ派の明暗を用いる技法や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ。アルブレヒト・デューラー「人体均衡論」を読み描写力に磨きをかけた。レンブラントは・・・実家に戻りアトリエを構える1625年「聖・ステバノ殉教」を制作ラストマンに弟子入りし、「ヤン・リーフェンス」と知り合い競い合う1628年、弟子を指導するようになる。名声を得つつあるレンブラントには、ライデンが狭くなって来た1630年4月23日、父が亡くなり、それを機会にアムステルダムに進出を決意ライデン⇒アムステルダム1632年、画商「ヘンドリック・ファン・アイレンブルフ」のアムステルダムにある工房に移り、肖像画を中心とした仕事をこなす1632年、大きな仕事の依頼を受ける!著名な医師の解剖学の講義を受ける名士たちの「集団肖像画」を描く『テュルプ博士の解剖学講義』である。レンブラントの代表作であり、出世作となり高い評価を受ける。デン・ハーグ『マウリッツハイス美術館』に展示してあります!Den Haagへの行き方は? 「アムステルダム中央駅」から約50分 「デン・ハーグ中央駅」Den Haag Central Station下車 入場料金=€.15.50(10:00~18:00)月曜13:00~1633年、アイレンブルフの家に間借りしていたレンブラントは、アイレンブルフのいとこ「サスキア・ファン・アイレンブルフ」と知り合う。サスキアの父は、レーワルデン市長を務めた人物で裕福であった。1633年、サスキアと婚約1634年、レンブラントの親族を呼ばないでサスキアと結婚式を挙げるこれでレンブラントは、正式なアムステルダム市民となる。聖ルカ組合の一員となる。多額の持参金と富裕層へのコネクションを得るサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなりふくよかな姿を描いた多くの作品が残された。名声を得たレンブラントは・・・提督オラニエ公からの注文で「キリストの受難伝」をテーマにした作品群『キリストの昇架』『十字架降下』を仕上たが、公が支払いを渋る。多くの弟子が門下に入る「フェルディナンド・ボル」「ホファールト・フリンク」「ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト」等50人1635年、レンブラントは、アイレンブルフから独立したアトリエを構える。富と名声を得たレンブラントは・・・弟子を教育しつつ、自らもあらゆるものを対象に描いた。妻サスキアをモデルにした『春の女神フローラに扮したサスキア』1634年エルミタージュ美術館『アルテミシア』1634年 プラド美術館依頼を受けた肖像画、街で見かけた物売りや乞食のデッサン情景を空想し描いたたロンドンやイタリア田園風景などを描く資料とする為に・・・いろいろなものを積極的に収集する。美術品や、刀剣などの工芸品多くの民族にわたる衣装や装飾品など手当り次第と言える膨大な点数を所蔵した。自らにふさわしい豪邸を求め、ユダヤ人街になりつつあった「ヨーデンブレーストラート」聖・アントニウス広小路、のちに「レンブラントの家」と呼ばれる事になる邸宅を(右⇒)1639年(33歳)、年賦支払いで購入し、ここで大きな規模の工房を構える。これは、13000ギルダーもの費用を要し、サスキアの財産を食いつぶしているのでは?と噂されたが、さらに投機にも手を出し失敗を重ねていた。1639年『酒場のレンブラントとサスキア(放蕩息子)』(エルミタージュ美術館)は、妻の財産を浪費し邸宅や収集品を集めているという非難を無視し自分を放蕩息子に譬えて表したのであります。1635年12月に生まれた最初の子「ロンベルトゥス」生後2カ月で死去1638年7月に生まれた長女「コルネリア」と同名の次女も生後1カ月で死去同年、母も死去。レンブラントの子どもで成人を迎えられたのは、1641年に授かった息子「ティトゥス」だけである。Rembrandt Harmensz.van RIJN,dit REMBRANDTLeyde(Pays-Bas),1606-Amsterdam(Pays-Bas),1669Autoportrait a la toque sur fond d’architecture,vers 1640Self-Portrait with a Cap against an Architectural Background,about(1640)1642年末、レンブラントは・・・火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を引き受けた。彼は、独自の主題性と動きのある構図を用いて1624年初頭に『夜警』を完成させた。『夜警』の制作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは、病床の彼女を描いた素描を残している。彼女は、一向に回復を見せず、1642年には、遺言を用意する。4万ギルダーの遺産は、レンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが息子が成人するまでは、彼を唯一の後見人として自由に使う事を認めた。ただし彼が再婚した場合は、この条件は無効とする。6月14日、サスキアは29歳で亡くなる。結核が原因だったと推測される。この頃からレンブラントの人生は暗転する!サスキアの看病、幼いティトゥスの世話する親族の女性はおらず仕事を抱える彼は、乳母として農家の未亡人「ヘールトヘ」を雇うがレンブラントの愛人関係になってしまう。レンブラントは、旺盛な制作活動に戻ったが肖像画では、注文主の要望に応え無い事から他の満足させる画家が好まれるようになり肖像画への依頼が段々と減っていった。しかし、レンブラントの浪費癖は治まらなかった!骨董や古着まで買いあさり様々な絵画や版画・デッサンもオークションなどで高値で落札した。さらに私生活は泥沼に・・・1649年頃、若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤールを雇い愛人として囲いはじめ、ヘールトへの立場を悪くし憎しみに駆り立てた1649年、レンブラントを婚約不履行で訴え裁判で毎年200ギルダーの手当を渡す事になる。この頃になると創作活動も滞りがちとなりヘールトに告訴された年には、1点の作品も残されていないレンブラントは、ティトゥスに贈与した宝石をヘールトが勝手に持ち出し売りさばいたと訴えてこれが認められて彼女は、ハウダの更生施設で12年の拘禁刑に断じられ5年で出所したが、翌年に亡くなる。強欲さをむき出しにしたヘールトは、絵のモデルもほとんど務めなかったがヘンドリッキは・・・レンブラントを支え、彼女のモデルの絵画も残っている。しかし、サクキアの遺言でしばられ2人は、婚姻していなかった。この頃になると、レンブラントは金銭にも事欠くようになる。仕事は、減ったが浪費はそのままで借金で賄っていたが返済の当てもなく邸宅の年賦払いも滞っていた。レンブラントは、美術品を売却してその場をしのいだ1652年、英蘭戦争が勃発し経済不況となる債権者は、厳しくなり1656年、レンブラントは美術品や邸宅など財産をティトゥスに相続させて保全しようとしたが裁判所は、認めなかった。7月20日、高等裁判所は、法定精算人を指定しレンブラントに財産を現金化する事を命じ363項目による財産目録が作成された。1656年9月、競売が始まり、翌年まで買い叩かれた。1660年12月18日、11,218ギルダーで売れた。邸宅を去ったレンブラントは貧民街である「ヨルダーン地区」ローゼンフラフトの街に住む行政や債権者は・・・レンブラントに好意的だったがアムステルダムの画家ギルドは、厳しく彼を画家として扱わないように定めた。これに対抗し1660年、ヘンドリッキエと20歳になったティトゥスは、共同経営で画商を開業しレンブラントを雇う形態をとり絵画の注文を受けられるようにした。このような境遇においてもレンブラントが抱える探究心が損なわれることはなく純粋に「画家とは・・・?」「芸術家・・・とは?」という主題に向き合った。そして、画家としての評価も依然高く最盛期ほどではないが絵画作成の依頼もあった。Rembrandt Harmensz.van RIJN,dit REMBRANDTLeyde(Pays-Bas),1606-Amsterdam(Pays-Bas),1669Autoportrait de I’artiste a la toque et a la chaine d’or(1633)Self-Portrait with a Cap and Gold Chain(1663)アムステルダム市からは、新庁舎に掲げる絵の依頼を受けたがこれは、依頼を受けていた「ホーファールト・フリンク」の急死のためである。1661年『クラウディウス・キウィリスの謀議』完成1662年『織物商組合の幹部たち』1663年、シチリア貴族のルッフォからの依頼『アレクサンダー大王』1663年『ホメロス』を描いた。しかしこの頃ヘンドリッキエは健康を害し1661年8月7日、娘コルネリアが相続する財産をレンブラントが自由に仕えるように定めた遺言書を作成した。この中で彼女は、レンブラントの妻とされており財産譲渡によってサスキアの遺言が事実上無意味になったことから二人は、結婚していたと考えられる。レンブラントは・・・またまた美術品などに手を出し、借金を作っており1662年、サスキアが眠るアウデ教会の墓所を売却するまでに金策に走ったこれを憂慮した遺言を残したヘンドリッキエは1663年7月末に38歳で亡くなり彼女は、サスキアが移された西教会に葬られた。1667年12月29日、トスカーナ大公国のコジモ3世がレンブラントのアトリエを訪問しレンブラントの自画像を購入した。しかし、レンブラントの人生は、好転しなかった!1668年2月10日、ティトゥスは、マグダレーナ・ファン・ローと結婚し9月4日に急死してしまう。1669年、息子の忘れ形見ティティアを得るが1669年10月4日、63歳でレンブラントは亡くなった。遺体は、二人の妻と息子が眠る西教会に屈葬された。Rembrandt Harmensz.van RIJN,dit REMBRANDTLeyde(Pays-Bas),1606-Amsterdam(Pays-Bas),1669Autoportrait,tete nue(1663)Self-Portrait,Bare-Headed(1663)・・・レンブラント・つづく・・ルーヴル美術館日記にぽち