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四月に入り、大阪も櫻が満開になりました。
天神橋から天満橋に続く大川ベリの櫻並木を撮って来ましたました。 この櫻並木は、遠くに見える二重橋の天満橋を越えて、まもなく始まる造幣局の通り抜けの櫻並木の下の河川敷を、遠くに見え大阪帝國ホテルまで、続いています。 先日、徳川家康が、江戸時代に、完全に地中に埋めた秀吉時代の大坂城の石垣が、再発掘され、一般公開されたので、見て来ました。 昭和三十四(1959)年、上町台地の地質を調査するために行ったボーリング調査で、地下約9.3mの位置から石垣と考えられる花崗岩が確認され、地下7.3mの位置で石垣が発見されました。 見つかった石垣は高さ4メーター以上あり、石垣上端には粘土がはられ、その上面は焼けていました。 見つかった石垣の石は、現在の大阪城の石垣と比べると、小ぶりの自然石が用いられており、石の積み方も、野面積(のづらつみ)です。 その翌年、偶然にも、豊臣氏の大坂城本丸図が東京で発見され、その詳細な検討から、発見された石垣が豊臣氏大坂城の本丸、中ノ段帯曲輪の石垣であると考えられました。 昭和五十九(1984)年に行われた、金蔵東側の水道工事に伴う調査で、またもや地下石垣が見つかりました。 石垣の上端は地表下1.1mという浅いところにあり、石垣の高さは約6Mありました。 石垣が築かれた地面の高さは、昭和三十四年に発見された石垣上端の高さとほぼ同じで、石垣が築かれた地面が中ノ段帯曲輪、上端の地面が詰ノ丸であることが明らかとなりました。 秀吉時代は、古代の墓石や卒塔婆も石垣の補強に使われています。 谷町台地にある大阪城のまわりは、 、、 NHKの大河ドラマの主役、軍師官兵衛の戦国時代は、信長軍は、11年の長い期間、石山本願寺に立て篭もった門徒衆と激しい戦いが続きました。 、 石山本願寺の前の小さな坂(おさか)から名付けれた、大坂城は、大坂冬の陣と夏の陣で、徳川軍に滅ぼされました。 焼けた金メッキされた瓦 発掘された鬼瓦 寝屋川から、夕暮で、ライト・アップされた大阪城と、ビジネス・パークのビル群を望む。 右の建物は、ホテル・ニュー・オオタニ このビジネス・パークのあたりは、戦前、大砲などを製造していた大阪陸軍造兵廠があり、何回もの空襲後、敗戦前日の昭和二十(1945)年八月十四日、敵B29爆撃機に爆撃され、学徒動員されていた中学生ら、工員多数が爆死しました。 又、最寄の城東線(現大阪環状線)と片町線が交差している京橋駅にも、爆弾が落下、ホームに避難していた乗客が多数爆死、今でも、身元が分からない人や死者数が分かっていません。 上町台地は悲劇の地で、この下には、巨大な上町断層が、岸和田方面まで、続いています。
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Last updated
2014.04.05 22:02:36
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