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無政府状態の大阪市西成区の釜ヶ崎騒動は、昭和三十六(1961」年8月1日午後9時5分頃、西成区の路上でタクシーが人をはねて死亡させる交通事故から発生しました。
西成警察署は被害者は既に死亡しているとし、遺体をそのままにして現場検証を行い、終了後に遺体を収容したのを見ていた日雇い労働者は、即座に遺体を収容しなかった警察に抗議し、翌日未明までに東田町派出所を打ち壊しました。 その後西成署に移動して署の窓ガラスを割り、そして駐車していたパトカーを破壊炎上させました。 8月2日夜は、昨夜よりも多い4,000人が集結し、警察関係施設のみならず、電車やタクシーにも投石をして、辺り一帯に非常線をはり、今のあべのハルカスから西は、全面立ち入り禁止にしました。 以前に、書きましたが、工員たちが野次馬で、見物に行き、暴動に巻き込まれ、骨折して、痛い目にあい、行くなと言いながら、その日の晩に見物に行きました。 阿部野橋駅に着くと、辺り一帯、異常な状態で、警官の姿が全然なく、静まり返っていました。 釜ヶ崎の方へ、下りて行くと、何々組と書かれた高張提灯を持った一団が隊列を組み、行進、 隣りの町では別の組の名の入った高張提灯を持った一団が行列を組んで徘徊していました。 町全体が静まり返っていました。 元の道に戻ると、外側を、大阪府警の高張提灯を持った一団に出くわし、暗がりで分からなったが警官隊だと分かり衝撃を受けました。 翌日、8月3日、大阪府警察は近隣の京都府警察や兵庫県警察にも応援を依頼し、約6,300人の警官隊を投入、暴動がようやく鎮圧しました。 釜ヶ崎騒動は、平成八年の第二十四次釜ヶ崎騒動まで続きましたが、今では、日雇い労働者向きの簡易旅館が欧米人の観光ホテルになり、星野リゾートが出来ます。 大阪の治安が良くなったのは納得です。 欧米人は大阪の街並みがきれいと言いますが、戦前の大阪もきれいでした。 尚、釜ヶ崎は高度経済成長期に、全国から仕事を求めて人々が押し寄せ、仕事にあぶれた人々が騒ぎ出したからでした。 1954年の大阪府警察発足以来、最大の暴動事件であった。 参考文献 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.08.27 16:14:17
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