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カテゴリ:キリスト教について
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。 何ひとつ永遠なんてなく、いつか すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。 これは、長田弘さんの詩「世界はうつくしいと」の最後の三行です。「うつくしいものの話をしよう」から始まるこの詩において、作者の長田さんは、何気ない日常生活こそが価値ある、感動に満ちたものであり、互いに感動を分かち合っていこうといっているようです。 「シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。」この部分が難解です。 受難週にエルサレムの人々は、イエスキリストをしゅろの木の枝をとって出迎えました。「ホサナ。祝福あれ。神の名によってこられる方に。イスラエルの王に」と。ヨハネ12章13節。ローマの圧政から救い出してくれるイスラエルの王を期待していた人々が勝利の象徴として用いたのがしゅろの木の枝です。これが「しゅろの日曜日」と呼ばれる日です。 カトリックや聖公会など一部のキリスト教会ではこのしゅろの木の枝を灰にして次の水曜日に、信者の額に祈りとともに塗る儀式を行うそうです。「あなたはもともと土から生まれたので、まもなく土に返る。 だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」と。「Wikipedia灰の水曜日より」 しゅろは新聖書辞典(いのちのことば社)によるとギリシア語では、「フォイニクス」、ヘブル語では「ターマール、トーメル、ティモーラー」であって、なつめやしのことであると記載されています。 同じ新聖書辞典で「なつめやし」の項目には、ギリシア語の「フォイニクス」は不死鳥を意味し、葉を拡げた樹容を不死鳥になぞらえる・・・その名のごとく100年から200年ぐらいの樹齢をもつとあります。 これらを総合して「シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。」を解釈してみますと、「勝利の象徴であり、永遠性をもっているあのシュロの木の枝でさえ灰とされ、撒かれてしまうのだ。永遠に続くものなどないのだ。だからこそ、うつくしいものをうつくしいと言おう。」という意味になることがわかります。
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最終更新日
2024年02月14日 23時44分43秒
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