今こそ、愛を語ろう。続編。
IAAB愛特別号の巻末「今こそ、愛について語ろう。」で三条別院で仏前結婚式を挙げた夫婦より質問に回答した編集局の三人の僧侶に、さらなる質問が届いた。果たして齋木・パクマン・ハセローは回答することができるのか?質問1:「愛憎一如」という言葉を知りました。愛が肥大化しないようにフラットな関係を築いていきたいです。何かアドバイスをください。パクマン 愛憎一如っていやに軽薄な言葉に感じますが…ハセロー かわいさ余って憎さ百倍みたいな、どちらかというと常識の範囲内というか…齋木 私たちは仏典のデータベースから典拠を求めますが、どうも造語っぽいですね。パクマン 仏教語としてはちょっと浅いですね齋木 親鸞は「愛憎違順することは高峯岳山に異ならず」と言っていますね。ハセロー 「愛はジェットコースター」ってことですね。齋木 それはさておき、愛と憎しみは原理からして激しいものなので、フラットにしようとする努力は徒労に終わりそうですね。ちょっと質問3に関係しそうです。質問2:「愛を感じる」という表現がよく分かりません。相手から何かしてもらったとしても「感謝の心」しか芽生えません。変ですか?ハセロー 愛を特別なものと考えすぎているような気がします。愛はもっと日常的にあるのではないでしょうか。齋木 うーん。うちの2歳になる娘がカバンにタッパーを詰め込んで、妻の真似して「パパにお弁当あげるの」っていって、カバンからタッパーをだして「はいどうぞ」ってくれたの。「ありがとう」っていったら、くるっと振り返って「ママもどうぞ」ってタッパーがもう1個でてきたの。まさかタッパーを2個も仕込んでたなんて気づかず、俺も妻も娘の愛にびっくりして(デレデレ……)パクマン 赤ん坊でも愛することができるってことですよね。私の場合になると妻とめくばせをちょっとするだけで、「アッこいつ俺を愛しているな!」と感じますね。ハセロー ちょっと気持ち悪い話になってきました。感謝というきれいなものでは収まらないものが愛なのかもしれません。質問3:仏教の考えや教えの面から、ズバリ!喧嘩した時の中直り方法をご教示ください。齋木 先輩僧侶に聞いたら「抱いてやることだ」といっていましたが、それは下品な言葉ですが一理あって、喧嘩は言葉で同じことを堂々巡りしますよね。「どうして話をきてくれないの?」「こうやって聞いてるじゃないか!」「その物言いが聞いてない証拠じゃない!」みたいな。その悪循環を言葉の外から断ち切ってやる必要があると思います。パクマン 「おしゃべりなその口をキッスで塞いでやる」みたいなことですね。ハセロー 何にせよ悪循環を断ち切る必要があるということですね。齋木 勝ち負けでなく、何を伝えたいのか?伝わらないのはなぜか?という視点に切り替えていくことも大事かもしれません。