鏡の中の萩の枝 3
「……」それは違う、と俺は首を振る。「一方通行なんてことないです、そうじゃないですよ。娘に心配されて、俺はうれしいです。お父さんだってうれしいんですよ。うれしいから、心があったかくなるんです。幸せなんですよ。だからあったかい笑顔を向けられる。鳥居さんだって、お父さんに心配されてうれしいでしょう?」心配して、心配されて。あたたかさをわけあってるんです、力説すると、鳥居さんはちょっと微笑んだ。「幸せなのかな、僕も、父も、何でも屋さんも」「もちろんです。どうでもいい人の心配なんてしないじゃないですか。しても、すぐに日常に紛れてしまう……。だけど、大切な人のことは、忘れたりしないでしょう? 心配って、ときどき苦しくなるけど……でも、そうやって誰かを思うのは、幸せなことだと思うんですよ」たとえ、それが思い出の中のことでも──俺は、俺と同じ顔の弟のことを思い出す。もう心配することもできないけれど、その記憶が俺の心の中をあたたかくしてくれる。「──幸せなことが、俺、楽しいです! 幸せを楽しむことが、あー、生きる歓びってやつなのかな、なんて。あはは……」気障な言葉に自分で照れて尻すぼみ、俺はひとりで空笑い。でも、鳥居さんは真剣な顔で荒ぶる萩を見ている。「……楽しむって、難しいことじゃなかったんですね。父は心配を楽しんで、僕も心配を楽しんで」楽しさを自覚してなかったってことなのかな、とやっぱり難しい顔になる。「えっとほら。元ネタは何か知らないけど、こういう言葉があるじゃないですか。『Don't think, feel』って。そういうことだと思うんですよ」考えるな、感じろって、なかなか深い言葉だと思う。「この爆発した萩だって、きっと何も考えずに枝を伸ばしてると思うんですよね……こっちのほうが伸びやすいな! とか感じて、だんだんこんなふう、に──」鳥居さんがいきなり吹きだしたから、おれはびっくりした。「爆発……! たしかに。この萩を見て、何て表現したらいいかわからなかったんですが、そうですね、爆発してますよね」ウケてる。笑いのツボに入ったみたい。そっか俺、コレ見たら誰でも爆発してると思うと思ってたけど、そうでもないんだな……。でも、鳥居さんが楽しそうだから、いいや。「あはは。枝の一本だけ見てたら、楚々とした秋の風情、って感じですけどね」自分で言った言葉に、ようやく俺はここに来たそもそもの理由を思い出した。「えっと、今日こちらに伺ったのは、お届け物があって。えっと、こちらの──」斜め掛けしてる、繊細なものを持ち運ぶ用にしてるポーチを開けて、俺は袱紗包みを取り出した。「萩の絵柄の手鏡です。預かるときに確認させていただきましたが、本当に楚々としていて、こっちの萩と同じものとは思えないかも」しれません、と言いながら鳥居さんを見ると、何故か驚いたような、信じられない、といったような、複雑な表情をしている。「萩の、手鏡ですか……?」「ええ。あれ? ご存知のものじゃないんですか? 古い蒔絵で、修理にはお金がかかったと聞いてますけど」鳥居さんの様子に首を捻りながら、俺は包みを手渡そうとする。「まさか──、だってあれは空き巣に盗まれて、そのまま……」震える手が危なっかしい。もしかして、これのこと知らなかったのかな、誰かのサプライズ? とか思いつつも、落としたら危ないので、俺は袱紗に包んだまま持ち手を持ち、絵柄が見えるように開いて見せた。「……お母さんの、鏡」信じられないものを見るように、目が見開かれる。全身の神経がこの鏡に注がれているかと思うほど。「これと……、お母さんの笑顔だけ覚えてる。きれいでしょう? って僕に持たせて見せてくれた。四歳の僕には重かった。母が支えてくれて、ほら、ここに秋の蝶がいるのよ、って萩の花を指さして──」「亡くなったお母様のものだったんですか! 盗まれたって、災難でしたね……。でも、戻ってきて良かったですね。俺、何も事情を知らずに預かってきただけなんですが、じゃあ、これはお父さんのサプライズかな?」修理には時間がかかったと聞いてるし、お父さんが倒れる前にどこかの古道具市ででも見つけて、慈恩堂に依頼してたものだったのかも。「この、背面の蒔絵の部分がかなり破損していて、それを直すのが大変だったと聞いています。特にこの蝶の部分の、螺鈿細工のうす黄色い色を再現するのが難しかったと──、そう、翅の片方だけが残っていて、その色に合う貝がなかなか見つからなかった、ということでした」「……」鳥居さんは、震える指で蝶の部分に触れる。「でも、鏡は割れも、ヒビも欠けも無かったそうです。幼い鳥居さんとお母さんを映した、そのまんまの鏡ってことになりますね。不幸中の幸いっていうのも変ですけど……」割れてなくてよかったです、と手鏡を表返してみせると、古めかしいけどきちんと磨かれた鏡面が現れる。俺のほうからは、ちょうど荒ぶる萩の、楚々とした枝だけが映って見えた。反射した光が、キラキラと辺りに散る。「鳥居さん?」鏡を凝視したまま、鳥居さんは動きを止めた。「鏡の中にも萩が……、お母さん……? お母さんそこにいたの? お母さん、おかあさん、おかあさーん!」母を求める子供のままの声で、必死に呼びかける様子に驚く間こそあれ、今度はその姿がふっと消え失せ、俺は腰が抜けそうになった。なんで? どうして? 鳥居さんはどこ行った?思わず落としそうになった手鏡、それはただ、真っ青な俺の顔と、風に揺れる萩の枝を静かに映しているだけだった。つづく……。