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カテゴリ:「個」「孤独」「群」「共同体」
3/31より、人気ブログの一つ「ガ島通信」の藤代 裕之氏が、日経BP社のサイトで連載を始めた。その第一回目のテーマは「ライブドアとニッポン放送の問題、愛だけでいいのか?」だった。
http://nikkeibp.weblogs.jp/gato/2005/03/050331ai.html ここで、 --------------------------- 『ライブドア堀江貴文社長の発言にはリスナーへの愛が全く感じられません。ラジオというメディアの経営に参画するというよりは、その資本構造を利用したいだけ、としか私たちの目には映りません』(一部抜粋)。この、ニッポン放送社員一同から出された声明文によって、拡散していた議論は、「愛」と「金」という二つの軸に収斂されてしまった感がある。 堀江社長からは、既存メディアに楔を打ち込んだ「破壊者」、「改革派」のイメージが消え、以前から付きまとっていた「拝金主義者」というイメージが強くなった。「金でなんでも買える」などと書いた自業自得とも言えるが、「愛」という言葉でリスナーや一般市民に訴えかけたフジサンケイグループの戦略もうまかった。私のブログ「ガ島通信」にも、「愛がない」堀江社長への批判的コメントが相次いだ。 --------------------------- という記述があった。ここが実に興味深い。 ここで、でてくるキーワードが「愛」である。 田嶋陽子が「愛という名の支配」という本を出していたのですが。この本の細かい内容はさておき。 この「愛」言葉には、時には、欺瞞を含むことがあるのだ。 「愛」という、誰でも「善」と思える言葉で、人をコントロールして、様々な良くないことを行う。 たとえば、子供に対して「この子の将来のために」とか「この子の安全のために」という一見愛情を注ぐ言葉のもとに、子供に過度のストレスや暴力を与えたり、子供が自立できる能力を奪う過保護に走ることがある。しかしそれは「愛」を語りながら、実際は、自分が達成できなかった事を、子供に達成させることで、自己満足をさせたり。単に、子供を自分で管理しやすくしているだけである。 また、DV(ドメスティックバイオレンス)のカップルの場合でも、暴力の後に、愛を語ることで、共依存の体制を維持し、継続して、DVがつづくし、その事実を、外部に漏らさないようにする場合がある。 今回、ニッポン放送側が、「愛」を語ったのは、メディアが、視聴者との共依存体制であることの証拠なのではないか。そして「リスナーのため」という言葉の使われ方も、「わが子のため」といいつつ、実質的には「子供」のためではなく、自分の欲求を満たすという行為と似ていて。ここにも、共依存の構造が見え隠れする。 突然、ニッポン放送の株を買い占めた堀江氏に対して、「メディアを殺す」、「支配する」、「ニュースの重要度はランキングで決める」と、メディア側などから、さまざまな批評が飛び交ったが。他の人の参入が許されにくい状況で、メディアを殺しているのは、メディア自身であると考える事もできるし。メディアは、新規参入が出来ない構造になっていたため、いわゆる「支配している」状態だし。「ニュースの重要度はランキングで決める」といいつつも、「視聴率」という、ある種のランキングにやたら敏感で、視聴率の取れる番組づくりをしていて、その中に報道番組も含まれている。 つまり、堀江氏に向けて発しられた言葉は、全て、放送メディア自らの行ってきた、ダメな行為そのものであり。それを、いくら堀江氏に対して言っても、多くの人の賛同を得にくかった。 そこで、DVした後に、立場として強い側が先に語る場合が多いが、DVされている人に向かって「愛」を語ることで、その関係を維持する時と同じように、メディア側の人間が「愛」を語った。そして、多くの人が納得し、関係が維持された。 つまり、DVのカップルと、メディアとそれに依存してしまっている人たちは、似た共依存の構造を持っていると言えるだろう。 その他にも、ニッポン放送やフジテレビ側の行動を見ていると、共依存の関係を維持するために使われる手法と似た、さまざまな方法が使われている事に気づく。そして、キレ具合も似てる。それは、子供に暴力を振るう親のうち、よくあるタイプの一つの行動ととても似ている。たとえば、焦土作戦も、言うことを聞かないのなら、メシにありつけないようにする事と似ているし。タレントに、いろいろ表明させるのも、下の子を言うことを聞かすために、上の子に下の子をたしなめさせるように仕向ける行為とも似ているなどなど・・・。とにかく、いわゆるダメ親の行動とそっくりな行動が多い。 また、堀江氏に対して「愛が足りない」と批判する人もいるが、共依存で過保護にしている人が、愛という言葉の元に、他人に、自分と同じように過保護にしろとけしかけたりしている様子ととてもよく似ている。 そんなことで、今回の騒ぎで、日本の多くの人とメディアとの間に、ある種の情報という暴力を通じての共依存関係の存在が露わになったように思う。 ジャーナリズムの片棒を担いでいると自負している放送メディアの人は、客観的に、この共依存関係について、気がついているのだろうか。 または、良くないことに気がついていても、同じ事を繰り返して、改善できない。 その関係が、本当に、放送メディアの発展だったり、新規に参入したいと行動に出た堀江氏のフィールドであるインターネットも含め、情報化社会のためにいいことなのだろうか。 今回、「愛」を語ったことによって、状況を維持することに成功したと言えるだろう。 しかし、それが、かならずしも、メディアを享受する人たちにとって有益かどうかは疑問である。 「当事者同士が、いいと言っているから、いいんだ。」という話しもあるが。 「愛」という言葉の魔法に掛けられ、本当は、良くないと思っている事も、言えない状況なのかも知れない。 または、なんとなく、悪い状況だと、気づいているかもしれないが、本当はヤバイ状況なのに、それが当事者間で当たり前となっており、それがヤバイと感じなくなっているのかもしれない。 さらに、悪い状況だと完全に認識していても、悪い状況を崩したら、生きていけないという錯覚に陥っているのかも知れない。だからこそ、無意識に「愛」という言葉の魔術をつかって、その状況を維持しようと努めたのかもしれない。 今の、メディアとメディアを享受している人が、そのことに気づき、本当にいい関係性なのかを、検証してみる必要があるのかもしれない。 さらに、共依存をしていることで、状況が良くないというのなら、共依存の関係をどうやって脱却するのか、アクションをしていく必要があるだろう。 ちなみに、「愛」という言葉ともに、共依存を維持する危険な言葉として「やり直そう」という言葉がある。 「ブエノスアイレス」という、ゲイカップルが描かれた映画の中で、よく出てくる。 酷い状況なのに、その関係を維持するときに出てくる決まり文句が「やり直そう」という言葉だ。 まあ、政治の世界でいう「改革」という言葉も、同様の言葉かもね。 おまけ情報。 ブエノスアイレスで出てくる部屋の映像の世界を再現する方法。 デジカメなりビデオカメラで、ホワイトバランスを、太陽光モード/屋外モードまたは、蛍光灯モードにして、電球の部屋で撮影すればいい。 あの作品では、部屋にある、青い光りの小さなランプ(おそらく中に蛍光灯が入った電球が取り付けられているのだろう)にホワイトバランスを合わせ。部屋全体を、普通の電球で照らしたのであろう。 フイルムで、あの映像を取りたければ、フィルタワークを勉強する必要があるけど、ビデオやデジカメなら簡単です。 ちょっといいデジカメや、ビデオに、これらの機能がついているので、是非試してみて下さい。 ★参考文献★ 愛という名の支配 田嶋陽子 今回は、本の題名だけで、引っ張ってきました。 この本は、人によっては、好き嫌いが別れると思いますし。ツッコミ方が足りないという方もいらっしゃると思います。 性という枠組みをはずして、男・女、親・子という言葉を、フジテレビまたはニッポン放送、そして、リスナーという言葉に置き換えて改めて読んでみると、おもしろいかも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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