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テーマ:今日の一言(1628)
カテゴリ:「個」「孤独」「群」「共同体」
「個の時代」と言われて久しいが、「個の時代」という言葉に欺瞞を感じるんです。
確かに、家には個室があり、それぞれの部屋にテレビがあり、家によっては各部屋に冷蔵庫まである。そして、パーソナルメディアであるパソコンや、より身体に近いウェアラブルコンピューティングに近いパーソナルメディアである携帯電話も普及し。音楽も、みんなで聴くわけではなく、ちょっと前までは、ウォークマン、いまは、iPodで個別で聞く。そういう物理的なものを見て「個の時代」と言うようになったのだが、実際は「個の時代」ではなく、不特定な人の集まりである「マス」の時代でしかない様な気がしてならない。 日本は、かつては「組織」を重視する傾向があり、何十年という時間をかけて、その組織の繋がりを解き解いていった歴史がある。 だからといって「組織」から「個」にシフトをしているというわけではない。 ここ10年ほど、ITを活用した、個別対応のマーケティング手法が流行っているが。マーケティング的には、個別対応と言い直接繋がりを持っているとはいいつつも、選択肢の単なる順列組み合わせによる多様性を欠く選択システムであったり、最大公約数的な者の考えや、常に統計的というかマスで捉えた方法論で行われているので、「個の時代」と言いつつも、実際は、「マス」で捉えていて、決して人を「個」という捉え方をしていない。 インターネットも、「個」同士の付き合いも可能なツールだが、多くの場合は実際は見えない「個」の不特定な集まりである「マス」を対象にして、コミュニケーションが行われている。メルマガも巨大掲示板もブログも拡大化したSNSもまさにそうだ。 メディアが個人に対し、何も緩衝材もなく直接個と繋がるようになったり、組織の解体を行っているから、「組織」から「個」にシフトしているように見えているだけで、決して「個」を尊重している訳ではない。 太平洋戦争時の日本は「組織」の時代のピークで、隣組から、婦人会まで、いろんな組織化に熱心な政策で。大東亜共栄圏を旗印に、東南アジアに攻め入った時に、アジアの国の人に対しても、組織化を働きかけていた。 そういや、あるワークショップで、ファシリテーションと政治のセッションで、星川淳さんと、このあたりの話しをした覚えがある。様々な共感をすることで、絆を深めた集団が、組織となると、大きな力を出すだけに、間違った方向に向いたら、これまた大きな力を出してしまう。日本は、それが、戦争に利用されてしまったという過去をもつわけで、戦争に負けて、占領下において、様々な、組織の解体が行われ。労働力の流動性と相まったり、不公正を正すという言い方でも、組織や繋がりを解体していった。 組織の解体をして、個別化したことで、もともと個は不完全なので、不完全な部分が露呈してしまうのだが。そこに、さまざまなサービス産業が成立するという経済効果も現れた。 たとえば、大学の進学希望は、医療・福祉系が伸びでいるが、これは介護ビジネスなど、福祉ビジネスのマーケットが、いま旬だからである。 介護ビジネスは、家族や地域という組織が解体された事によって施されなくなった事をサービスとして提供しようというものだ。介護保険という制度が出来て、いままで補完するものという立場から、一気に介護事業という大きな地方自治体の事業の柱となるように成長した。 しかし、制度を導入するに辺り、一人、一人事情が違うにもかかわらず、要介護認定という一つの物差しで、対応を決める。一つ一つのサービスは、個別になされてはいるが、必ずしも、その人の「個」ではなく、ある範囲内の不特定多数のものに対し均一に対応するという「マス」的な捉え方をしている。 これで、果たして「個の時代」なのだろうか。 また、個は不完全だからこそ、そこから湧いて出る恐怖感に基づいたビジネスも増えた。これは、個の不完全さに対応した「個の時代」の産物のようにも見える。 たとえば、個の時代になって盛んになったものの一つに、資格商法があるのだが、資格を取るということは、自己実現をすることに繋がるのだが。資格を得て、何かしらの形で認められることで、安心したいという、不安感を利用して、広がった面もある。資格は、何かしらに認定されるという仕組みのために、資格を認める人に依存する形となるわけで。これは、必ずしも「個」の確立に役立っているわけではなく、本当に「個」が確立しているのであれば、資格なんてなくても、堂々と生きられるはずである。 資格というものを得て、ひとつの属性に入れられることで、安心を得たり、信用を得たりする。これで、自己実現が出来ればいいのだが、資格に拘る人は、一つの資格では安心出来ず、次から次へと資格を取り続ける。人生、常に勉強という言葉とは違う意味で、常に満たされず資格を追い続ける。 そんなことで、資格を取ることは、必ずしも「個」を育てているわけでもないし、「個」を尊重しているわけではない。 「個の時代」を象徴するものの一つに「個性的」という言葉があるが、これも変だ。 いわゆる「個性的」と言われるものの中には、ある一定の型にはまったものになると「個性的」と言われる事が多い。ロックバンドが、それぞれの個性を売りにやっきになるのだが、個性を出そうとする行動が、けっこう似通っていて、結局似通ったバンドが増えるという現象を起こす。 似たようなことをしようとしても、どうしても似たようなことが出来ずに個性の出てくるバンドもあるので、個性を得るためのプロセスとして、個性的という枠にはまってしまおうとするのかもしれないが。 「個の時代」を象徴した「個性的」という言葉を使うときは、たいがい、ある型にはまったというか、記号性としての「個性的」である場合が多く。「個性的」と言われるものに対して、決して「個」として捉えているわけでもなく「個性的」という属性の「マス」として捉えられ扱われている。 「個の時代」と言っているけど、実際は、個を育てることもしていないし、個を尊重しようともしていない。それで、本当に「個の時代」なのだろうか。 本当の意味の「個」を育て「個」を尊重していないからこそ「個の時代」という言葉を使って、「個」を尊重しているように見せかけることで、社会のバランスを取っているのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.02.09 15:18:11
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