北上夜曲の作曲者が死去
【岩手日報】 安藤睦夫氏が死去 北上夜曲の作曲者 国民的愛唱歌となった北上夜曲を作曲した作曲家安藤睦夫(あんどう・むつお)氏が9日午後5時50分、急性肺炎のため洋野町の病院で死去した。82歳。同町種市生まれ。自宅は同町種市8ノ16。火葬は12日正午から八戸市十日市の市斎場、葬儀は15日午後1時から同町種市の東海寺で。喪主は長男敬夫(たかお)氏。 旧制八戸中(現八戸高)在学中の1941(昭和16)年、北上夜曲を作曲。水沢農学校(現水沢農高)の生徒だった故菊地規(のりみ)氏=89年死去=と文通で交友を深める中、菊地氏が作詞、安藤氏が作曲した。 歌は軍歌全盛の時代、若者に静かに広まった。戦後、週刊誌に掲載された歌詞の誤りを安藤氏が指摘したことで作曲が判明。61年にレコード化され大ヒットとなった。74年には、北上市立花の北上川河畔に菊地氏、安藤氏の自筆による歌碑が建立。多くの観光客らが訪れている。 安藤氏は盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)卒業後、洋野町で農林水産業を営みながら作曲活動を展開。種市高や町内小学校の校歌、多数の童謡を作曲した。51年から旧種市町議4期、2005年同町文化功労者賞を受けた。http://www.iwate-np.co.jp/news/y2007/m01/d11/NippoNews_2.html北上夜曲の原詩は菊池氏の「北上川の囁き 今は亡き可憐な乙女に捧げる歌」で、後に安藤氏が曲をつけ、1941年、盛岡の旅館「吾妻館」で完成した歌です。盛岡の高等農林や師範学校の生徒によって歌われ、師範学校の卒業生(教師)がその教え子へ広めたのではないかと考えられています。口伝てで広まったため、歌詞も変化してしまいます。作詞者・作曲者不詳のままで、「北上川の初恋」のタイトルでレコード化もされましたが、歌詞から盛岡中学と白百合の悲恋の歌だと思われていたようです。1961年、サンデー毎日(2月12日号)が「川は生きている 北上川」の記事で歌詞を紹介します。これを読んだ安藤氏が歌詞の間違いを指摘したのです。曲の完成から20年、ようやく作詞・作曲者が判明しました。安藤氏とのエピソードを三好京三氏が語ったことがありました。その要旨は、種市の小学校へ赴任した三好氏の歓迎会で三好氏が北上夜曲を歌うことになり、PTA会長がピアノ伴奏をしてくれることになりました。北上夜曲を歌っている途中で、「メロディーが違う!」と指摘されたそうです。若い頃は歌手になろうかとも思ったという三好氏は「そんなはずはない。」と言い返しましたが、「♪しらゆりの~だ。」、「いや違う!」と伴奏者と押し問答になります。最後に伴奏者が「俺が作曲したんだから間違いない!」と言われ、伴奏者が作曲者の安藤氏と知ったそうです。北上夜曲の作詞者・菊地規http://www.esashi.com/kikuchinorimi.html北上夜曲歌唱コンクール全国大会(北上観光協会)http://www.kitakami.ne.jp/~ksa/4season/autmn/au_top.html