全日空機雫石衝突事故 1971年7月30日
夏休みの校庭に聞こえた衝撃音。あれから35年。去年の記事ですが雫石事故機の破片保存 全日空 全日空の山元峯生社長は30日、雫石町上空で全日空機と自衛隊機が衝突し、全日空機の乗客乗員162人が死亡した、1971年7月の「雫石事故」の残存機体について、今後破棄せずに展示施設を造って保存していく方針を明らかにした。 日航ジャンボ機墜落事故の残存機体は日航が保管しているが、同社は事故原因とされた後部圧力隔壁以外は将来的に破棄する方針を固めており、日航と全日空で対応の違いが明確になった。 日航機事故の遺族には保存を望む声も根強く、8月12日で事故から20年となるのを前に論議を呼びそうだ。 雫石事故で回収された機体の破片や部品は現在、全日空内の倉庫に保管されているほか、機長の肩章や救命胴衣などが雫石町の「慰霊の森」にある施設に展示されている。全日空は、こうしたものや、当時の新聞記事などを展示する施設を来年3月までに造り、主に社員の研修用として公開する。社員から提案があったという。遺族や一般への公開は今後検討する。 施設の場所は、東京都大田区の研修センター内や、港区の本社内が候補として挙がっている。 山元社長は「事故を風化させず、社員全体で安全に対して取り組むための展示品と考え、実現させたい」と話している。http://www.iwate-np.co.jp/news/y2005/m07/d31/NippoNews_8.html全日空機雫石衝突事故(以下、Wikipediaから)全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)とは、1971年(昭和46年)に発生した旅客機と自衛隊機が空中衝突し双方とも墜落した事故である。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し乗客155名と乗員7名の計162名の全員が犠牲になる惨事になった。なお、この事件については一般には全面的に自衛隊側に事故責任があるとされているが、刑事裁判および民事裁判では、双方に見張り不足があったが、自衛隊機側の責任がより重かったと判断された。また当時のマスコミによる一方的な自衛隊批判に反発して、一部には自衛隊擁護論が存在する。目次1 事故の概要 2 マスコミによる自衛隊批判 3 事故に対する裁判 4 自衛隊擁護論 5 全日空擁護論 6 その後の経過 1.事故の概要1971年7月30日、全日空58便(ボーイング727-200 機体記号JA8329)は、静岡県内の戦争未亡人などの遺族会の団体旅行客などをのせ、札幌・千歳空港を午後1時33分に離陸した。ほぼ同じごろ航空自衛隊第一航空団松島派遣隊所属のF-86戦闘機2機が訓練のため航空自衛隊松島基地を離陸し、訓練空域を目指して北上した。岩手県雫石町付近上空で、午後2時2分ごろ、まっすぐ東京方向を飛行していた旅客機に、旋回飛行する教官の機体を追っていた訓練生(当時22歳)の自衛隊機が接近し、衝突の直前に互いに視認したが、あまりにも回避するには手遅れであった。そのため自衛隊機に旅客機が追いつく形で28,000フィート(約8,500m)で衝突し、自衛隊訓練生機の右主翼付け根付近と全日空機の水平尾翼安定板左先端付近前縁とが接触した。そのときの速度は旅客機が900km/hで自衛隊機が840km/hであった。そのため双方とも操縦不能になり墜落し、全日空に搭乗していた乗員乗客162名全員が死亡した。2.マスコミによる自衛隊批判当時のマスコミの報道は、有視界飛行の自衛隊機が民間機の定期航路に入り込んで、計器飛行中の旅客機と衝突事故を起こしたのであるから、自衛隊機に重大ミスがあったといった断定的なものであった。朝日・読売・毎日の日本三大全国紙の夕刊は7月30日付紙面で自衛隊機の過失を全面的に報じていた。そのため事故原因が一方的になったといわれている。しかし航空事故の発生要因はひとつではなく、特にこの事故のように好天下で航空機同士が空中衝突した場合、程度の差はあれ双方に過失を認定すべきであった。そのため旅客機側に接触直前まで回避行動を取らなかった過失が存在するという論もある。しかも当時は民間航空路と自衛隊の訓練空域が接近していた情況があったため、双方とも注意が必要であったともいえる。事実、柳田邦男の「続マッハの恐怖」によれば、1971年時点で複数の旅客機パイロットが自衛隊機とのニアミスや危険な行為を受けた経験を持っていたとしている。また「自衛隊機は常識はずれの無謀操縦をしており、防衛庁には弁解の余地がない」旨を新聞紙上に発言した大学教授が事故調査委員会委員に任命されており、先入観と偏見を持って調査していたともいわれている。しかし、旅客機に搭乗していた全員が犠牲となり当時としては史上最悪の航空事故となった本事故に対し、マスコミの報道は事故の原因となった航空行政や安全対策の不備の追求よりも、片方の当事者である自衛隊に厳しいものになった。また、旅客機が航路をそれ自衛隊の訓練空域に入っていたという主張もあったが、自衛隊機の教官の証言では訓練空域が当日朝に上司から指示されたものであり、民間航空機の飛行は制限されるものと思ったとしており、訓練空域の設定自体に問題があったともいえる。事実、教官は臨時に設定された訓練空域における民間航空路の存在と危険性について松島派遣隊の上層部から指導されていなかったこと、松島派遣隊には古い航空航路図しかなく、現行の民間航路の正しい位置を知ることが出来なかったなどによって、教官は少し離れた位置に航空路があるという認識をして訓練に向かったという。そのため自衛隊幹部にも責任があったといえるが、後に刑事裁判で起訴されたのは現場の操縦士のみで、このような自衛隊の管理体制までは責任を追及されなかった。これは組織全体のエラーを教官に負わせたともいえる。また、現在においても事故の原因追求より当事者の責任追及になりがちな日本の社会風土により、マスコミにて自衛隊悪玉説が一方的にステレオタイプで報道されたことに問題があったといえる。3.事故に対する裁判刑事裁判では、全日空側の操縦乗員は殉職したため、自衛隊機の教官と訓練生が業務上過失致死と航空法違反で起訴された。第一審の盛岡地裁(1975年3月11日)は、教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8月の実刑判決が言い渡され、第二審の仙台高裁(1978年5月9日)は、教官の控訴は棄却したが、訓練生に対して無罪を言い渡し確定した。上告審の最高裁(1978年9月22日)では、教官に対する量刑は酷過ぎるとして執行猶予3年を付けた。法人としての全日空と航空自衛隊は刑事訴追を受けなかったが、このことが判決で自衛隊に一方的な過失責任を負わせる結果となっているとされる一因である。また全日空機が危険回避操作をしかなったことも問われなかったが、裁かれるべき乗員が殉職したため、被疑者死亡のためいたしかたないといえる。一方民事裁判では、全日空および保険会社10社と国の双方が、互いに損害賠償を請求しあって争うことになった。ここでは通常の交通事故と同様に双方に過失があったと認定されたが、第一審の東京地裁(1978年9月20日)はその割合を国6、全日空4であるとし、第二審の東京高裁(1989年5月9日)は国2、全日空1であるとした。そのため、自衛隊(国)の過失が重いとされた。また余談であるが損害額の認定に当たって航空機がたとえ新品(事故機は就航3ヶ月であった)であっても使用した年数に応じて減価償却した金額であるべきとの判例が生じた。4.自衛隊擁護論全日空機は自衛隊の訓練空域に侵入した上で、速度の速い全日空機がF86を引っ掛けたのが真相であるとして、自衛隊の過失は軽いとする意見がある。このことは全日空が起こした損害賠償を求める行政訴訟で国側が主張したものであるが、裁判所はこの主張の根拠となった自衛隊のデータを精度を低いものとして採用しなかった。この事故に関する訓練空域についての認識は国、航空会社、戦闘機の教官とも違っていた上に、裁判で認定された訓練空域は民事、刑事ともそれぞれ違っていたという。そのため、どちらが航路を逸脱したかを論じることは難しいといえる。しかしながら事故当時の一方的なマスコミによる自衛隊批判に対して、全日空側の過失が重いとする論調の意見は現在でも根強くある。たとえば内藤一郎の「真説日本航空事故簿」や足立東の「追突」などといった書籍は、自衛隊全面擁護、全日空全面批判といえる内容となっている。これはマスコミが「自衛隊側に一方的な非がある」との姿勢に基づいた報道を展開したことに対する反動といえる。内容であるが前者は朝日新聞を名指しで批判しており(前述のように自衛隊を糾弾したのはマスコミ全般であったが)、事故に関わった自衛隊員に同情的である。また後者は全日空機操縦乗員が食事を摂っていたため前方監視が不足していた可能性や、裁判が必ずしも公平ではなかったと指摘している。事実、第一審の盛岡地裁も旅客機が西へ12Km程度逸脱していたと認定しており、加えて旅客機に承認されていた航空航路は24,000フィートであり、それを超えて上昇していたために自衛隊機に衝突したといえる。(この場合、航空管制ミスが追及されるべきであるといえる)また当事故発生から10年以上たった1985年2月になって搭乗していた乗客が撮影した8ミリフィルムが発見され、そこには予定されていた航空路からでは本来撮影できるはずのない田沢湖が写っていたことから、全日空機が航路を逸脱して自衛隊の訓練空域を飛行していたことの証左とされた。この時点では民事裁判(刑事裁判は結審していた)が進行中であり、証拠として提出されたが否かは不明であるが、前述のように双方の過失を認定しつつも自衛隊のほうが過失が大きいとされた。5.全日空擁護論まず当時のマスコミの論調自体が、自衛隊悪玉説であった。さらに全日空側が回避行動を取らなかった理由として、自衛隊機が編隊機などの場合、民間機は進路を変えずに自衛隊機が回避して去っていくのを待った為とする論が有る。これは「自衛隊機が国籍不明機など不審機の識別のため自機に接近し監視している」と民間機のパイロットが判断した場合は、回避せずに水平飛行を継続すべきとされている事に拠る(海外では領空侵犯していた民間機が回避し、逃亡と判断され撃墜された事例がある)。そのため全日空機は回避をせず事故に至ったのではないかという推測があった。また仮に回避行動を取るにも、小型戦闘機に比して大型旅客機は鈍重と言わざるを得ず、視認して操縦桿操作から機体反応までは時間差があるため、回避に間に合わなかった可能性も指摘されている。この点から、より俊敏な自衛隊機側の回避責任が大きいとする論もある。また、一部報道で自衛隊機が訓練のための標的機(仮想敵機)として民間機を利用することが日常的に行われていたとする元航空自衛隊員の告発があった。これによると事故機となったボーイング727が冷戦体制下における日本にとって最大の仮想敵国であるソ連の領空侵犯する爆撃機に似ていたために迎撃訓練に利用したというものである。ただし防衛庁は事実無根と否定している。6.その後の経過この事故で航空自衛隊の最高責任者であった航空幕僚長が引責辞任した。また自衛隊、旅客機のどちらの過失が重かったかは論争があるが、いずれにしても、国による航空機の管制に不備があったため、政府は立ち遅れていた航空管制システムを近代化し、日本国内全域でレーダー管制がなされるようになった。また自衛隊の訓練空域も陸上から海上へと移転した。全日空機の機体残骸は全日空が倉庫で保管していたが、2006年中にこれまで全日空が起こしたほかの人身死亡事故の残存残骸とともに安全教育と慰霊のために一般に公開することになった。なお、全日空機が墜落した現場は「慰霊の森」として整備され、毎年7月30日に全日空社長も出席して慰霊祭が行われている。