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鴨緑江の街丹東生まれのあれこれ

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2014/01/26
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カテゴリ:その他未分類

『自分史』第5部 岡山での第2の人生 その1

満洲から引き揚げて以来我が家は苦しい生活が続いたが両親が親類、縁者の助けを得ながらも次第に立ち直りそのおかげで私も何とか人並みの教育を受け社会人となった。私は父のお蔭で大学卒業の年不二製油に就職し無事定年まで勤め上げ郷里の岡山へ帰った。

大阪へ第二の仕事に就いたが1年間のみで全ての仕事から解放されて文字通りの毎日が日曜日の年金生活者となった。

この後は主な事項を簡単に箇条書きしていきます。

「朝日30会」(岡山朝日高校30年卒同期会)

不二製油退職後の1年間だけの第2就職も終わっていよいよ本当の「毎日が日曜日」の生活が始まりました。日々母を見舞う傍ら母校朝日高校の同期との交友が結構忙しく此れが生活の基盤となりました。

同期が50歳になった頃から30会では修学旅行と称して毎年国内旅行をするようになっていました。同期が還暦になった年に還暦記念旅行と称して初の海外旅行が実施されニュージーランドへ行きました。

一方ペタンク(仏発祥の球技)は朝日高校同期のK.M.に薦められていやいやながら始めたのだがたちまち嵌まってしまいました。

この年の秋彼女の好意でダブルスを組んでもらったところ比較的大きな大会でなんと3位となったのが嵌る要因でした。

又朝日高校同窓会でこの年からボーリング大会をする事になったため30会でもチームで参加する事になり急遽メンバーを集め練習をしました。私がコーチとなって練習に励みこの年は駄目でしたが翌年は最年長ながら団体優勝するまでになりました。

札幌時代ボーリングが全盛で私も一度だけでしたが3G600点を超えた事もあり後年本社での社内大会のミックスダブルスで2年連続優勝したこともありました。

?y?^?“?N?‰“???(?´‰??R???X?W?D?X?D?Q?O?j?k?¬.jpg                   1998年9月の大会で3位に入賞した時の表彰式

ゴルフの会員権は帰岡後も私が持っていた大阪の愛宕原GCはその頃不二銀杏会(OB会)のコンペの場所になっていた為幹事に頼まれた為に会員権を売るに売れずそのまま保持して新たに岡山でも河田の義兄に薦められて長船CCを300万で購入しました。しかし後年バブル崩壊により会員券相場が下がり両方とも僅か数分の一になってしまい売る気にもならず其のその後も持った儘になっています。

又この年私は長年苦労していた痔をとうとう高校時代の親友の外科医の奥村君に切って貰い以後随分楽になりました。

「妻の兄と私の姉の死」

一方妻のも私同様昔の学校友達との再会を楽しみながら我が家の庭作りに精を出し見事に表は花で飾り裏は野菜畑に再開発しました。翌年の夏家内の歯科医である次兄が肺がんに侵されている事が判ったが手術も薬も効かず僅かな期間で逝ってしまいまた。

妻は発病以来毎日のように見舞いに行っていましたがその甲斐もありませんでした。

更に追いかけるように私の姉もその年の12月に思いもしなかった脳出血でたった一晩で逝ってしまいました。

彼女は女学生時代肺結核に罹り幸にも回復しましたが戦後の栄養事情の悪化もあってか結婚後再発し些か無理とも思えた肋骨切除と言う大手術をしたため結核自体は完治したものの肺機能が著しく衰えた事により無理の利かない身体となり60歳の頃からは常時酸素を鼻から補給する生活になっていたでまさか脳出血で逝くとは思ってもいませんでした。

私はたまたまその前日に県北にお墓参りに行った帰りに買った彼女の好物の小豆を妻と届けに行ってお互いに近状を話し合って野菜などを貰って帰ったばかりでした。それでも直前に会えた事は僥倖でした。そんな訳で誠にあっけない死別でした。

母の嘆きは大きかった。尚義兄は10年前に歯医者になる寸前の次男を交通事故で亡くし昨年は自分の母親が逝ったばかりで今回の不幸ですからさらに気の毒でした。

「母の事」

この頃母は年老いてすっかり子供返りをして周囲にやんちゃを云って困らせていましたが満州から引き揚げる前後からの母の頑張りには子供心にも敬意すら覚えるほどでした。

私が社会人になった年の秋交通事故に遭いその後遺症を何とか克服しようと頑張り一時はぼんやりして計算も出来なかった頭も遂には株の売買をするほどの回復を見せ父が膀胱癌で逝ってからは極僅かの間私達の所へ来ていただけであとは一人で頑張っていました。

それでなくともこの母には戦後の生活苦の中でどれだけ苦労を掛けてきたかを思うと少少世話がやけると云っても文句を言うわけには行かないと私は自分に言い聞かせながら毎日の様に病院に通いました。

特に姉が逝った時の母の嘆きようは言葉に書き尽せぬものがありそれ以来次第に心身が衰えて行き3年後94歳で消え入るように逝きました。

思えば母は父が逝ってから実に40年近くの大半が病院生活でしたから長い長い闘病の晩年だったように思います。

そんな母でしたが父と協力して私に仕送りをしながら倹約して元金を作り何と株で儲けて今私が住んでいる家を新築したのでした。私が不二製油入社の年でした。

妻の事」

妻と私の母とは最初から上手く行かず私の頭痛の種でした。

然し若い頃の朝子は妻としても母親としても充分その役割を果たしてくれました。仕事で出張の時は勿論の事遊びでゴルフに行く時も朝どんなに早くてもちゃんと朝食を用意してくれました。

又広島時代に息子が今で言う「いじめ」に遭った時の学校や虐めの相手の母親等に対する折衝には驚くべき力を発揮し見事に短期間に解決させました。

更に退職後の年金生活の中で私がスポーツは兎も角年回のも中国旅行にも文句を言いながらも何とか協力してくれています。






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Last updated  2014/01/28 04:21:16 PM
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