|
カテゴリ:河野氏と湯築城
湯築城の役割--河野氏の本拠(居城+守護所)
では湯築城が河野氏の本拠となったのはいつ頃であろうか。それを示す文書はないが、応永年間になると湯築城における河野氏当主の元服記事が出だすので、この頃(1400年前後)から湯築城が河野氏の本拠となったと推測されている。 守護の性格・役割は中世前期と後期ではかなり異なる。中世前期即ち鎌倉期の守護は幕府支配からの自立性が低かったのに対し、後期の室町期になると守護権力は幕府支配から自立性を高める。従って守護所が府中の地に置かれねばならぬ必然性は薄れる。伊豫の場合、外に開かれた府中の地(現在の今治市)よりも道後の方が安全性が高いことに加えて、湯築城は広大な道後平野を押さえる位置にある点で、政治支配の中心として相応しい。 河野氏が本拠を風早郷から道後の湯築城に移したのは、上記のような守護の性格の変化とともに、河野氏自身が在地領主から守護へと変化したことに対応するものであろう。 湯築城を本拠としたとしても、居館及び守護所が城内にあったかどうかは、現時点では不明と言うしかない。先年の電車道拡張前の行政発掘で、湯築城の西およそ200mの所に「コ」の字状の堀が発見されている。この堀は一辺が一町(約109m)の方形の堀の一部と推測されており、これが湯築城拡張(後述)までの河野氏の居館或いは守護所であった可能性が指摘されている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 15, 2005 10:00:54 AM
コメント(0) | コメントを書く
[河野氏と湯築城] カテゴリの最新記事
|