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カテゴリ:河野氏と湯築城
湯築城の拡張--防御力強化
戦国期に入り、弾正少弼通直により湯築城の外堀と外堀土塁が設けられ、湯築城は二重の堀を巡らし、内部に居住区を取り込んだ平山城に拡張され、城の防御力が強化された。この時、前述の湯築城の近くにあった一町四方の施設を、居住区に取り込んだと推測される。その根拠は、城外の施設で検出された出土遺物はこの時期までのものに限られ、これ以後の遺物が全く出土していないことによる。 湯築城の拡張時期は、川岡勉氏の文献史料の研究から推定された年代と、発掘調査から明らかにされた外堀築造時期とが一致したことから、ほぼ確定したと言ってよい。即ち、国分寺文書と仙遊寺文書によれば、1535年(天文4年)に温付堀(ゆづきぼり)の普請が行われたと考えられる。この拡張により湯築城は居住区をも内部に取り込んだ、二重堀(注※)を巡らす平山城となった。これらは信長による安土城から始まるとされているが、湯築城の拡張は安土城築城より40年ほども早く、平山城、総構え構造の先駆をなすものと言えよう。 なお、「温付堀」の読み方は、「温泉郡」を「ゆのごおり」と読むこと、昔の文書では「湯築城」を「湯月城」「井付城」などと字がまちまちであることなどから、川岡勉氏は「温付堀」を「ゆづきぼり」と読んだのではないかと推測し、現在ではほぼその見解で固まった。 (注※)当時の周辺河川の状況を併せ考えると、実質的には三重堀と言えそうな姿が浮かんで来る。この件については別に述べる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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