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カテゴリ: 歴史全般
樽味四反地遺跡現地説明会(2006-02-18)
樽味四反地遺跡第13次調査の現地説明会に行く。報告は第12次・13次調査に跨って行われた。第6・8次調査で見つかった太い柱を使った高床式建物のような劇的な発見は無く、地味な内容だったが、大型建物区域を囲むと見られる環濠が出土した。樽味遺跡の全貌はまだ判っていないが、相当に大きいことは間違い無い。第13次調査区域から少し南西に行くと急激に低くなり、この辺りは舌状台地の西端に近い。北はすぐ近くに草葉川とその向こうに石手川が流れて居ることから、この辺りが北端に近いと思われる。従って樽味遺跡はここから東と南に広がっていると見て良いだろう。どこまで広がるか、今後の調査が楽しみである。帰りしなに調査に当たって当時の地勢も明らかにして欲しいと要望しておいた。 樽味遺跡の存在から判る古代石手川の位置(2006-02-20) 18日(土)の樽味四反地遺跡現地説明会に行って、樽味遺跡のイメージが漸く具体化し始めた。樽味遺跡がある場所が舌状台地であることは直ぐに理解できたが、そこの標高を聞いて驚いた。道後から南に行くにつれて低くなって行くので、樽味遺跡も道後より低いものと推測していて、何でそんな低いところに集落があったのか疑問に思っていた。説明会が終わってから発掘担当者に標高を尋ねたら、凡そ40mとの答え。何と道後と変わらない。南北で切った断面図を描くと、道後から次第に低くなり、樽味遺跡の北で急激に高くなっているのだ。縄文・弥生時代より前から石手川はその一番低いところを流れていたのだろう。足立重信が改修する前の石手川は、現在の石手川の南岸を南限とし、北岸は愛媛大学付属小学校の真ん中辺りまでの幅を有する大河だったと考えられる。このようにイメージがはっきりしたお陰で、色々なことが考えやすくなった。今回の説明会の大きな収穫。 樽味遺跡の王が統べる国(2006-02-21) 樽味遺跡が外交権を持つ国であったとすると、その版図はどの範囲だったか。魏志倭人伝によると、一つの国の戸数は千戸から五万戸である。外交権を持つなら有力な国であった筈であるから、戸数は万の単位であろう。 松山平野の弥生遺跡は多いが、それらが独立した国であったのか、樽味遺跡に在す王が統べる国の一部であったのか。樽味遺跡の範囲はまだ未確認であるが、ここだけで万の単位の戸数があったとは思えない。戸数が万単位となると、樽味遺跡を中心とし、付近に点在する文京遺跡その他の弥生集落は、樽味遺跡に在す王が統べる国に属していたのではなかろうか。魏志倭人伝が伝える国はかなりの広さを持っているので、松山平野に点在する弥生集落全部で一つの国を形成していたと考えても可笑しくはないだろう。弥生時代の集落地図を描いてみたら面白い。樽味遺跡の現地説明会に行ったおかげで、弥生時代のイメージが描けるようになった。 【保存のため「imajouの独り言」から転載】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 14, 2006 02:02:50 PM
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