夏の終わりに
八月も最後の週末、TVでは盛んに防災のニュースが流れている。 ある年の夏休み、昭和20年3月10日の東京大空襲はどんなだったのか、 祖母に聞いてみた事がある。 夏休みの課題で調べようと思っていたからだ。 「あの時は火がぼーぼー燃えてね。 しょうがないってんで、二階から布団ぶん投げて、 おばあちゃんはそこに飛び降りて逃げたんだよ。 川には人が沢山ぷかぷか浮いててね。 あれはほんとに惨かったよ。」 私達姉妹は神妙に聞いていたのだが、 そこへ叔母が来て 「それは、大震災の話だろっ。もう、ごちゃごちゃになってんだから。」 「あれ、そうだっけ?へっへっへ(笑)。」 沈黙・・・・・・・。 話はそれきりになって、話題は別のほうへ滑っていったと思う。 聞かずして聞いた話だったので驚いたが、戦争でぷつりと切れてしまっている何かが、 その先へ繋がったような気がしたのを覚えている。 祖母の言葉は東京の下町言葉で、町内の頼まれ事とかに 「へえ。よござんすっ。」と歯切れ良く答えていた。 母の言葉も「おみよつけ」だの「押っぺす」だのそれなりに混じってはいたが、 関西育ちの私には、そんなものは時代劇の言葉だと思っていたので、仰天だった。 それから数十年。 そんな祖母も、夏の盛り、お盆のはじめに他界して5年になる。 肝心の3月10日だが、母は当時3歳に満たず。 最近になって、母より8つ年上の叔母に少しずつ話を聞いている。 その頃、一家のガラス工場は運良く焼けずに残った地帯にあり、被災を免れたらしい。 母は祖母と一緒だったらしいのだが、叔母は疎開中の出来事だったとか。 結局・・・折角の運も、戦後数年で火災にあって工場を消失してしまったそうな。 その場を訪れてみると、それなりに古い建物がその辺りだけ残っていたが、 前回の震災の為か、各世代に少しずつ入れ替わって行った建物の中に、新築の戸建が結構な数で混じっている。 昔ながらの瓦屋根・下見板の建物は、何とか無理やり補強したり、人も住まず取り壊される時を待っている。 そこから見るスカイツリーは近々と、天を突く巨大さであった。