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テーマ:こころの旅(60)
カテゴリ:文化
少し前のことだけど、いま一番会ってみたい人No.1と言われる江原啓之さんの講演に行ってきた。
それは島根県の観光課が主催する無料イベントで、出雲大社への観光を促すキャンペーンの一環として行われたもので、先着順で入れたのだ。 テーマは「スピリチュアル・サンクチュアリ」平たく言えば聖地めぐりについてだ。 期待の高まる中、演壇に和服姿であらわれた江原さんは、思ったとおりに丸く、そして温かかった。それはもうストーブのように温かかった。 そして客席に向かって深く丁寧に何度かお辞儀をした。万雷の拍手である。 それから最初から最後まで時間めいっぱい話しつづけた。きっちり一時間半。律儀というかなんというか。 内容は出雲大社と出雲文化の特異性。そしてうまいものの話し。…近頃では自分のことを食いしん坊キャラとして定着させようとしているのかな?ダイエットはもういいらしい。 話しは盛りだくさんで、出雲や神々、聖地めぐりについてだけでなく、いじめや虐待、自殺など、現代日本の風潮について強く憂いておられた。 もともと日本は精神性の高い国。 それが敗戦によりアメリカ的な物質中心主義になったことで、目に見えぬもの(すなわちこころ)を大切にすることを忘れてしまった。 そして世代の特徴について… 戦後間もない世代は食うや食わずで物質主義に走るのも理解できないことはない。 団塊の世代は反発をしたけれど、イチゴ白書よろしく手のひらを返して社会に適応していった。 その子供たちは主体性のない世代で、人に言われたとおりに生きてきた。親の言いなりになって受験戦争に明け暮れた。 今の子供たちは無垢の世代。彼らは何も悪いわけではない。ただ何にもない。いいも悪いも何もわからない。 だから道端に座っても何がいけないのかわからない。 大人たちも美醜というものを語れないでいる。 たとえいじめをやめろといったところで、大人がいじめ社会なのに説得できるわけがない。 確かに最近の報道を見ていてもスケープゴートを求めているだけのように思う。まるで犯人探しをしているようだ。学校にも責任はあるだろうが、いじめた子供たちや親、クラスメート、その場に居合わせた人たち。そして地域社会や国、すべての人にいくばくかの責任を感じるべきではないか?その上でそれぞれが自らの心を見つめ、内省すべきではないのか? 僕が個人的に印象に残ったのは、神道について話したことだ。 「異論もあるかとは思うのですが、私は神道は宗教ではないと思っています。なぜなら神道には教えというものがないからです。そこには自然のエネルギーへの畏れ敬う気持ちがあるだけだからです。だから宗教というよりも霊的な文化と言えるのではないでしょうか? 神道は国家に利用されたことがあるので、必要以上に神道を嫌う人もいますけど、それはとても残念なことだと思います。神道に限らず、捻じ曲げてしまうのはいつも人間なんです。神や自然は関係ないんですね。」 うん。そう思います。そういうこともはっきり言ってくれてよかった。 神社や神道というと、すぐ右に傾いてしまがちだから…そうでなくても右が勢いづいている昨今、そうしたことを明確にすることは必要なことだと思う。 日本は精神性が高いなんていうと、すぐに日本は特別に優れた国家であり民族だなどと考える人もでてくるかもしれない。 講演以外でも明確に平和へのメッセージを発信しているところがよい。 講演自体は爆笑の連続、なごやかなもので、美輪さんをネタに何度か笑いをとっていた。 講演中に携帯が鳴った。 「事前に注意されても止めない人がいる…これ私だからいいんですよ!美輪さんだったら処刑ですからね!」(爆笑) でもこれはネタではなく事実みたいです。美輪さんのコンサートに行ったことのある人が言ってました。 舞台上で「処刑に値します!」と怒っていたそうです。 まぁ歌ですからねぇ。 楽しく、いろいろ考えさせられました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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