真夜中の子供達。2
あたしのブームはちょっと(かなり)世間様より遅い(ので、恐らく来年の今ごろ蛇にピアス(?蛇のピアス? 蛇とピアス?)を読んでこれはいい~とか、唸ってるであろう。読んでみたい気持ちはあるのよう~。 この間も言ったが、もし一昨年があたしにとってミランクンデラの年で、去年がジージャックであったとするならば、今年はラシュディーの年なのである。 マイペースに私の読書の小道は続いていく。彼のブッカー賞受賞作(あまり賞のたぐいを信じていない私も最近のブッカー賞がアタリ続きであることを認めざるをえまい。去年のLife of Piは良かった。)Midnight Children(邦題:真夜中の子供達)は、私の彼が、私が「読んだことないの、それ。あまりにもポピュラーで食指が動かない」。と(WaterStoneで)言ったら、You do not know how much you missed (自分がどれだけ大きなものをミスったか、分かってないんだよ。←深い意味はない。よく聞く表現。)といって推薦してきた本。私のラシュディーに関する知識は、彼が在英インド人であること、ムスリムであること、彼の書いた書The Satanic Verses(邦題:悪魔の書(?))がイスラム教を冒涜してるというので、イランのホメイニ師が死刑宣告(ファトワー)を下した為以来隠遁生活を余儀なくされていること、日本で悪魔の師を翻訳した方が命を落とされたこと。のみだった。最後の、事件自体はあたしの記憶にはなく、知識として知っているに過ぎないので、ぼんやりと悪魔の書をドキュメンタリーとか、ルポルタージュなのかな。と思ってたりした。で、そんな前知識がなんとなく、彼の本を手に取ることを妨げてきたんだけど。Anyway,真夜中の子供達。衝撃的でした。ミランクンデラ以来の衝撃の大きさです。一体いかなる人がこれを書いたのか。どういう頭の構造の持ち主がこれを書き得たのか?真剣に思った。これはインドの話にしてインドにあらず。この本は主人公サリームの回想と言う形で進められる。彼はインド独立のまさにその瞬間にボンベイの平均的な中流階級の息子としてこの世に生を受ける(正確には彼はスラムに住む貧しい両親の子供だが、誕生直後に助産婦によって同じ時間に生まれた裕福な両親の子供とすり返られ数奇な運命に足を踏み出していく。)。インド国家誕生と同日同時刻という誕生の故に、彼の誕生日は大勢の人々に祝福され、新聞に写真が載り、時の首相は赤ん坊のサリームに「私たちはこれからもあなたの人生を見守っていきます。あなたの今後の人生は、すなわちこのインドと言う国家の鏡なのですから」という手紙を送る。しかし華々しい誕生に反して、この時を頂点としてサリームの人生は苦難の道を歩むインドの国家と時を同じく、シンクロするように苦難と裏切りに満ちたものに転じていく。まさに彼のたどった人生は独立後のインドという国家が「近代化」へのプロセスの中で歩んだ道そのものなのだ。その中で、独立後の暗闇と混沌に落ちていく、インドの過去30年の事件(ガンジー暗殺後の混乱、カシミールを巡る戦争、インディラガンジーの政府等)は、主人公個人の生活と重ね合わせて語られていくのだ。こう書くと所謂大河小説っぽいものを想像させるかもしれない、所謂歴史に翻弄される主人公の人生を描くやつ。ハーディとかスタインベック「怒りの葡萄」とかさ。戦争と平和とかさ。答えは否。否。そんな単純なストーリー構成ではない。この物語では、サリームがインドの歴史の中を生きるのではない。サリームの生涯がインドの歴史なのだ。個人の人生における出来事は国家の事件と文字通り一体にして語られるのだ。インドという国と主人公サリーム、その二者は同じ時間に生まれた双生児であり、また同一の運命を共有するものたちでもある。 そういう意味で、この物語は少年の成長を通して、またインドの近代化への歩みを通して、個人が人間性を、民族として個人としてのアイデンティティを追求、模索するための寓話と言えるかもしれない。(一般には歴史(政治)をフィクショナイズする彼の手法はマジックリアリズムと呼ばれている。寓話なのにリアル。寓話と呼ぶにはあまりにもリアルなイメジャリー。)この本において、モノガタリは個人と他者、個人と国家、公の歴史と個人的な出来事は混沌であり一体化する複雑な構成を保っている。その複雑さは、網の目のように広がり、時には続いていたオハナシの線が途切れたり、同じテーマが輪廻転生のように形を変え反復し絡み合う。他者と自分、大衆と個、歴史と御伽噺、空想と現実、歴史の縦の線横の線のクロス。 一瞬と永遠。これら全ての要素は渾然と一体化し物語へ怒涛のように流れ込む。過去は脈々と自分へ流れ込み運命をつかさどり(歴史の縦の線)、現在は個々を越え影響しあう(歴史の横の線)。 互いの感情、人と人との絡み合いがダイレクトに作用しあい運命を変える。全てはつながっているのだ。縦にも横にも。それが歴史であり、人の営みであり、ラシュディーはそれをマジックリアリズムと言う形で実体化して見せたのだ。歴史とは個人によって作られるが、しかして歴史を作るはずの個人ですら孤立して立つのではなく、先人の周囲の人々の営みによってはぐくまれる流れの中で圧倒的に無力だ。こんなあたりまえのことだが、それをラシュディーは圧倒的な力強さで描ききる。この構成の複雑さ、それこそが多言語多民族を抱えるインドの複雑さ、豊かさなのかもしれない。蛇足だが、もしそれでも分類を試みるならば、この物語をお互いに絡み合う作用しあう3つのパートに分けられるかもしれない。最初の30年はpre-独立時代であり、カシミールにて主人公の祖父の物語。イギリスによる近代的なものと古のインド。近代の術である医学を志す祖父と祖母のかたくなな古の神秘さ。この辺がポストコロニアリズム文学と称される所以か。この祖父の"追放"を皮切りに、このパートで示された追放と失意の物語は形を変え、何でも生まれ変わり、坂道を転がるように加速していく。2つ目のパートは主人公の幼少期の物語。タイトルの「真夜中の子供達」はインドの独立の日、1947年8月15日の初めの1時間、つまり深夜0時から午前1時までに誕生した子供達1001人を示す(その内、幼児期に死亡してしまったものを除いて572人が最終的な子供達の数)。インドの国家の真夜中から夜明けにかけて生まれた子供達は古の国家の名残のようにそれぞれ不思議な力を有する。(インドの国家が誕生するまさにその時間に生まれた主人公は人の心の中を読み、人に思念を送ることができるというもっとも強い力を持つ。)それぞれ時間を超える、魔法、鏡を通り抜けて移動等の不思議な力を持つ子供達。これは奇跡の物語だろうか、いやむしろその力ゆえの 受難の物語。意識的にキリスト等の生涯とダブらせてる。この真夜中の子供達のカンファレンスは平和への祈りであったにもかかわらず、皮肉にも能力ゆえにかれらを悲劇が襲い、破滅させ、最後には希望をも奪い去る。最後のパートは彼が何もかも失い、破滅の中で民族と個のアイデンティティーを見つけるまでの話。不思議な力に象徴されるインドの古の魔法、神秘さはサリームの中で生きるもここに歴史の前に敗北するのだ。実際彼の人生はその能力にもかかわらず、追放、破滅、裏切りに彩られている。いや、如何せん暗いっちゃ暗いんだけど、それでもこの複雑な構成を持つ本を魅力にしているのは圧倒的な言葉の美しさ、豊かさであろう。全編破滅の予感に彩られているにもかかわらず、詩的なもの、イメージの豊穣さ。またどことなく滑稽味を誘うところも不思議に魅惑的。言葉の魔術師だ。また確かに、この本はインドと言う国家なしでは語れないけれど、それ以上に普遍的な国家の枠組みを超えた物語だ。主人公のサリームが経験する歩みは私あなたの歩みであり、宗教、国家に囚われない共通の痛みでもある。その為に意識的にキリスト、仏陀、モハメットのイメジャリーを彷彿とさせるのだろう。この書に見られるテーマのいくつかはSatanic versesにて。