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行動ファイナンス学者、ケインズ
さて、長期の事業計画に基づく投資の収益予測は極めてあやふやものなのだというのがケインズの意見なのだが、実際に投資に影響を与えている投資家は、証券市場の存在によって、先のことまで考えずに投資をすることができるし、現にそうしているとケインズは語る。 株式市場のような市場で投資を流動化できるようになることで、個人は投資を改訂する機会を頻繁に持つことができる。このことは、古い投資家の投資物 件を個人間で容易に移転することができるようにするが、同時に、現在の投資率に大きな影響を与えることが必至だ、とケインズは心配する。 ここから十数ページほど、ケインズは、なかなか先進的なファイナンス学者になる。ケインズが株式投資に熱心な実践する投資家(それも、大相場を張るタイプの投資家・投機家)であったことはよく知られているが、彼の理論には、投資の経験が生きている。 ケインズは、市場参加者の予想が「現在の事態は変化を期待することさらの理由がないかぎり、これから先どこまでも、このまま続いていくと想定する」 ものだと述べている。但し、それは、人が本当にそう信じているのではなく、そのようなこと(変化しないこと)は起こらないと分かっているが、そうするの だ、と注意する。同時に、こうした慣習的な計算方法は、「われわれの事業に相当程度の連続性と安定性」をもたらしている。 「われわれは実際には、市場の現在の評価は、それがどのような経緯でそうなったにせよ、投資収益に影響を及ぼす事実についての手持ちの知識との関係 で見れば一意に正しく、そしてこの知識が変化する場合にかぎり、評価もまたそれに応じて変化する、と想定している」(P210)これがケインズの市場観の 一方の基礎だが、この理解には、ケインズから見て30年ほど後に隆盛を見た「市場の効率性」の議論を卒業して、その先を考えて行こうとする行動ファイナン ス学者の視線を感じる。 後年の行動ファイナンスの学者達が、効率的市場仮説を克服するにあたっては、効率的市場の例外事象としてのアノマリーの研究など、かなりの回り道を 経ているが、ケインズは、人間の観察から出発した分、「期待」が「正しい情報」および「正しい株価」と直結するような非現実的な世界観には嵌まらなかっ た。 しかし、「慣習の不安定性」を高めるいくつかの要因があることで、「十分の投資を確保するという現代の問題」(P211)も影響を受けるし、市場の不安定がもたらされているというのがケインズの見立てである。彼は次のような要因を指摘する。 まず、経営に関与せず当該事業に関わりのない投資家・株主が増えることで、投資物件を評価する際に依拠する「真の知識」の割合が下がっていて、投資 物件の利得に影響する少々の変動(たとえば製氷会社が夏場に儲かるといった長期的でない現象)が過大評価されるし、大衆の意見は楽観と悲観の間で大きく揺 れ動く。 加えて、彼が多少の憤りと共に指摘するのは、「玄人筋の投資家や投機家の精力と技能」が「投資対象のその耐用期間全体にわたる期待収益に関して、す ぐれた長期期待を形成することに意を用いるのではなく、たいていの場合は、評価の慣習的基礎の変化を、一般大衆にわずかばかり先んじて予測」することに投 入されているに過ぎないということだ。 プロも含めて市場の参加者が、ファンダメンタル・バリューの発見に注力するのではなく、投資家の心理を通じて短期的な株価に影響を与える目先の変化要因の予測に振り回されることを、ケインズは指摘する。 「真正な長期期待に依拠する投資は今日ではほとんど不可能なほどの難事となっている。そうしようと試みる者は、群衆がいかにふるまうかについて群衆 以上に想像をたくましくする人よりは、もっと労苦の多い日々を送らねばならず、降りかかる危険もずっと大きい」(P216)とも言っている。 ケインズは、投資家の刹那主義を嘆いているが、それに逆らうことが簡単ではないことも同時に理解していた。 また、こうした刹那主義の原因を「人間というものは結果がすぐに表れることを望むものである。手っ取り早い金儲けにことに強い興味を示し、遠い先に 得られる利益を平均的な人間は非常な高率で割り引く」(P217)とも述べており、後年行動ファイナンスで研究された「時間非整合」(あるいは「双曲割 引」)の問題を直感的に把握していたように思える。 彼は、この傾向が市場参加者の「頭脳が生来、凡庸だからではない」(P213)のであり、(ケインズから見ると)過度に流動的である市場の構造のせいだという。 ケインズは、この章の終わり近くでまたこの問題に戻り、投資家の関心を目先の利得から、長期的な投資価値に向けるために、証券に市場において取引税 を掛けることも一案だと述べている。このアイデアは、後年になっても、たとえば激しい国際資本移動を手なづけるために、通称「トービン・タックス」(金融 取引税)を導入してはどうかといった形で時々復活してくる(筆者は不賛成だが)。 ケインズによると、「熟達した投資の社会的目的」は、「他人を出し抜く」ことではなく、「われわれの未来を覆っている時間と無知の闇を打ち負かすこと」でなければならない(P214)。 こうした議論の途中に、「それぞれの参加者は自分が一番美しいと思う顔を選ぶのではなく、他の参加者の心を最も捉えそうだと思われる顔を選ばなければならない」(P215)ゲームとして有名な新聞紙上の「美人コンテスト」の喩えも出てくる。 また、「投資資金の運用者」の行動について、「世俗の知恵の教えるところでは、型を破って成功するよりも、型どおりのことを行って失敗した方がまだしも評判を失うことが少ないのである」(P218)と皮肉を述べている箇所もある。 「投機」と「企業」、およびケインズの「結論」 ケインズは、「投機という言葉を市場心理を予測する活動に、企業という言葉を資産の全耐用期間にわたる期待収益を予測する活動に」充てている(P219)。 彼の分類は、考え方として筆者の流儀での「投資」と「投機」の分類に正確に対応するものではないが、実際の活動を分類する上では、「企業」の活動への資金提供となる「投資」と、市場心理を予測するゼロサムゲームである「投機」との区別に対応しているように思える。 ここでのケインズの懸念は、先にも述べたように、資本市場が組織化されるにつれて、「企業」よりも「投機」が優勢になるのではないか、ということ だ。「一国の資本の発展が賭博場(カジノ)での賭け事の副産物になってしまったら、なにもかも始末に負えなくなってしまうだろう」という心配がその内容 だ。 ケインズの見るところ「社会的に見て有益な投資政策が最も多くの利潤を稼ぐ投資政策であることを示す明確な証拠は経験上何一存在しない」 (P215)。われわれには「他人を出し抜く」ために必要な以上の知力が必要だが、それが金銭的利益に結びつく保証はない(P217)とも言う。 結局、ケインズは、資本市場のパフォーマンスに関して「懐疑的」になり、「利子率に影響を及ぼすことを目的とした金融政策がただそれだけで成功を収 めうるとは考えていない。これからは、長期的視野に立ち社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算することのできる国家こそが、投資を直接組織 化するのに、ますます大きな責任を負う、と私は見ている」と、本来あるべき「企業」の活動への希望を国家に棚上げしてしまっている。このケインズの結論に 対する評価は様々だろう。 筆者は、狭義の金融政策だけで経済の問題が解決できない状況があることについてケインズに同意するが、国家が「社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算する」ことなどできないと思うので、後半部分には賛成できない。読者はいかがだろうか? 結論への賛否は別として、「一般理論」の第12章はともかく面白い。ぜひ読んでみて頂きたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月11日 19時06分34秒
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