2015/04/05(日)18:38
鳩ヶ谷駅周辺の石仏 その4
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昨日は一日で212のアクセスがありました。最近、少しづつアクセス数が増えて
ありがたいことだと思っていたのですが、それにしても急に212とはビックリ!
どこかでどなたかが、このブログを紹介してくださったのでしょうか?
アクセス数が増えるにつれてこちらもいい加減なことを書くわけにはいかないと
写真の整理、資料の検討など、前よりも慎重に進めています。行き届かない所、
勘違いしている所など、気がついた所があればご指摘いただければと思います。
今日は法福寺から南を歩いてみましょう。
真福寺 川口市辻736
法福寺から南へ10分ほど歩くと真福寺に着く。門の右脇に石塔が立っていた。
寺標 文化2(1805)正面 上部に梵字。続いて四國八十八箇所移 六十二番
真福寺と彫られている。右側面には武州足立郡辻村とあり願主、世話人
あわせて三名の名前が刻まれていた。
左側面には年号。その下に里村 法福寺江七丁十六間、上青木 安樂寺江
十丁半と刻まれている。ここから西に歩き芝川を越えると上青木になる。
門を入ると、すぐ左側の脇に二基の石塔が並んでいた。
左 光明真言供養塔 嘉永2(1849)正面 梵字の下に月山・湯殿山・羽黒山、
西國・坂東・秩父、「奉順拝光明真言三百萬遍供養塔」と刻まれている。
その下、薄い彫りだが、右から川口、善光寺だろう。真ん中がよくわからない。
一番上は六?または大師か?一番下は道?その左には江戸とある。
左側面 上部に大きく西。その下は読みにくいが大みや 氷川神社道だろう。
左脇には年号。右下に武州足立郡平柳領辻村 願主 個人名を刻む。
右側面 上部に東とあり、その下に二つの地名が並んでいるようだが、どうも
はっきりしない。両方共、最後は八里のように見えるが、八里=32kmとすると
千葉県の柏の先あたりになる。成田では遠すぎるし、戸田は方向違いだし・・
同じ面の下の方は比較的わかりやすい。右に慈林やくし道、左は はとがや道。
三面に七地名を刻み、道標としての意味が大きかったに違いない。
右 六十六部供養塔 宝永7(1710)正面 梵字の下「奉成辨六十六部為□□」とあり
上部両脇に天下泰平・万民豊楽、中部両脇に年号、さらに下部両脇に武州下足立郡
戸田領里村 願と刻まれていた。塔の一番下は文字が切れている。どうやら塔の
一部分が土中に埋もれているためと思われる。
右側面 上に施主とあり、両脇に里村、辻村と刻む。続いて鳩ヶ谷町、浦寺村を
はじめ近隣の十数カ所の村名が並んでいた。一番下の前川、塚越などは、最後の
「村」が切れている。左側面には導師 浦寺村地蔵院住 法印禅海と刻まれていた。
本堂の右奥に墓地が広がっている。入口付近に小堂が二つ。奥は六地蔵菩薩立像。
手前には庚申塔が祀られていた。
庚申塔 享保5(1720)日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持六臂。目の前の香炉が
邪魔になっていて、正面からその全体像を撮ることはできなかった。左側面に
「奉供養庚申為二世安樂」と刻まれている。
三眼の青面金剛はやはりドクロの首輪をしている。保存状態がよく、彫りも丁寧で
はっきりしている。鈴・ショケラ持ちはこの地域では普通に見られるようだ。
足元に合掌する邪鬼を彫る。その下には三猿。バランスよく仕上がっている。
右側面上部 中央に武州下足立郡平柳領辻村、右脇に瑜伽師 真福寺住 法印尊慶、
左脇には年号が刻まれていた。
下部には30人程の名前。多くの人がこの庚申塔の建立に関わったことが伺える。