緑区東浦和 大北釈迦堂の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら東浦和を北から南へ見てきましたが、駅前通りから西の地域は区画整理などがあって新しいマンションも多く建ったためか、めぼしい石仏がほとんどない状態でした。最後に中尾のすぐ東の地域に三か所、見るべき石仏が残っていました。今日は大北釈迦堂の石仏を見てみましょう。大北釈迦堂 緑区東浦和3-4[地図]東浦和駅北の信号交差点を左折して、東浦和駅前北通りを西に向かう。700mほど先の信号交差点を右折するとコンビニの隣に大北釈迦堂の入口があった。前の道を北へ進むと中尾の吉祥寺の東を通って駒形へ、南へ進むと川口の柳崎方面に至る、昔からの街道だったようだ。門柱の間から墓地のフェンス前に石塔が並んでいるのが見える。もともと日蓮宗の寺院の墓地なので、整然と並ぶこちらの六基の石塔は題目塔と遠忌塔だった。右の五基は遠忌供養塔、左端は読誦供養塔である。入口左の塀の後ろに庚申塔が立っていた。庚申塔 寛延4(1751)四角い台の上の笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲の下に「庚申塔」下部に正面向きの三猿が彫られているが、風化のために手や顔など一部が欠けていた。この庚申塔は10年前に取材した時には東浦和3丁目、富士見坂通りの路傍に立っていたもので、その後こちらに移動されたものらしい。(2014年4月当時)塔の右側面に造立年月日。左側面に武刕足立郡大牧村 講中十人と刻まれている。六基の題目塔・遠忌塔の左端 讀誦法華経供養塔 寛政10(1798)自然石の正面にヒゲ文字で「南無妙法蓮華経五千部成就」ここでは唯一の讀誦供養塔。両脇に造立年月日。下部両脇に「講中」さらに右下に願主三名の名前が刻まれていた。2番目 日蓮大菩薩五百遠忌塔 天明元年(1781)二段の台の上の角柱型の石塔の正面「南無日蓮大菩薩五百遠忌」上の台の正面に「講中」このあとも50年ごとに遠忌塔は続く。3番目 題目塔 天保2(1831)正面に「南無妙法蓮華経」右脇に「上行日蓮大菩薩五百五十遠忌」左脇に「無邊行日使大士一百五十遠忌」台の主面に「檀中」4番目 日蓮大菩薩六百遠忌塔 明治14(1881)四角い台の上の自然石の正面「南無日蓮大菩薩六百遠忌」5番目 日蓮大菩薩六百五十遠忌塔 昭和6(1931)二段の台の上の石碑の正面「南無日蓮大菩薩六百五十遠忌」台の正面に「講中」右端 題目塔 昭和56(1981)二段の台の上の石碑の正面「南無妙法蓮華経」右脇に高祖日蓮大菩薩、左脇に第七百遠忌報恩。背面に造立年月日。さらに関係者、協力者合わせて30名の名前が刻まれていた。墓地に入り突き当りの右、個人の墓所の中、入口近くに像塔が立っていた。庚申塔 寛政元年(1789)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。講中造立の庚申塔が個人の墓所にあるのは意外だが、世話人としてその造立にかかわって預かることになったものか?風化が進み白カビも厚くこびりついていた。髪の束が顔から外へいくつも飛び出すようなあまり見たことのない髪型。頭上にこんもりと蛇がとぐろを巻く。顔のあたりに白カビが多くはっきりしないがどうやら三眼のようだ。持物は矛・法輪・弓・矢。こちらは確認できた。足元に邪鬼が憎々しげに横たわる。台の正面に両脇が内を向く三猿。背中を丸めて座りなんだか元気がない。塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。その下に木崎領大牧邑 講中八人と刻まれていた。墓地に入って突き当りから左、やはり個人の墓所の中に江戸時代初期の特徴である相輪が異様に発達した二基の宝篋印塔が並んでいる。二基の宝篋印塔 慶安2(1649)この二基は双子塔で、墓石だった。それ以前には宝篋印塔は武士や僧侶の墓石としてはいくつか見られたが、慶安あたりの頃になると、このような立派な墓石を一般でも建てるようになったらしい。ただそれも村の最有力者に限られたと考えられる。頂上の宝珠、相輪の各部分、隅飾の中央にかけて上から「妙」「法」「蓮」「華」塔身最上部に「經」ここまで「妙法蓮華經」続いて「爲慈天道興□霊位」基礎正面「第十七箇年忌也」両脇に造立年月日。こちらが左塔。右塔は塔身部に「爲慈母妙法善尼」基礎に「菩提□□一切也」両脇に像立年月日。この両塔はご夫婦の墓石で、左がご主人の17回忌供養塔、右が奥さんの追善供養塔ということだろう。