緑区大間木 八丁と下山口新田の石仏
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は赤山街道を東へ、大間木の八丁から下山口新田へ向かいます。八丁稲荷神社前 緑区大間木1914[地図]東浦和駅前の通りを南へ向かい、二つ目の信号で斜め左の県道103号線「赤山街道」を進む。次の信号のすぐ先、道路左側に稲荷神社がある。入口右脇に庚申塔が立っていた。庚申搭 安永6(1777)宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中 日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。台の正面に「講中」髪を五つの束に結い挙げた青面金剛。頭上には天蓋。「川口型庚申塔」ではないが、右手に鈴を持つ。左手に吊るしたショケラは膝を折り曲げ合掌。持物は三叉戟・法輪・弓・矢。足元に上半身型の邪鬼。両手を立てて正面を向く。その下に両脇が内を向く三猿が彫られていた。塔の右側面に「奉建庚申搭」台の右側面に九名の名前。塔の左側面に造立年月日。台の左側面にも九名の名前。両側面合わせると講中18名になる。八丁集会所墓地 緑区大間木1906[地図]稲荷神社の東に八丁集会所が立っていた。同じ敷地内、右手前に大聖不動尊堂がある。入口左手に多くの石塔が並んでいた。手前、水盤の隣に庚申搭 宝暦元年(1751)四角い台の上の駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。像は白カビが厚くこびりついている。髪を高く結い上げた青面金剛。左手のショケラは足を折り曲げ、右手の剣の真下の位置、ちょっと珍しい。足元の邪鬼は二匹?左の邪鬼は右向きに土下座、青面金剛に右足で頭を踏まれ、右の邪鬼?は座ったまま両手で青面金剛の左足を受け止める。未だ見たことのない変わった構図。その下に両脇が内を向く形の三猿が彫られていた。塔の右側面「奉待庚申供羪爲二世安樂也」塔の左側面中央に造立年月日。その左脇に施主八町中と刻まれている。その後、庚申搭 文化3(1806)自然石の正面に大きく「庚申塔」下の台の正面に大間木 講中とあるが目の前に木の枝が張り出していて写真は撮れなかった。背面に造立年月日。正面とともに達筆で格調高い・右隣に普門品供養塔 寛政12(1800)四角い台の上の敷茄子と蓮台付きの角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「普門品一萬巻塔」台の正面に「講中」塔の右側面に造立年月日。左側面に武州足立郡 大間木新田 十四人、同村 一人、下山口新田 八人とあり、施主は合わせて23人となる。右端の小堂の中 念仏供養塔 宝暦10(1760)角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。顔ははっきりしないがバランスの良い像容、錫杖・宝珠も健在で大きな欠損はないようだ。石塔の正面「念佛供養」両脇に造立年月日。下部中央に施主、右脇に女講中、左脇に村中と刻まれている。境内右側、大聖不動尊の横に小堂が立っていた。六地蔵菩薩塔 文化7(1810)六基の塔は、丸彫りの地蔵菩薩立像、蓮台、角柱型の石塔、四角い台ともによく揃っているが、右から3番目の顔だけが後から補われたものだろう、異様に大きくバランスが崩れている。その3番目の地蔵塔の台の正面に大間木村中。右脇に造立年月日。左脇に世話人一名の名前が刻まれていた。下山口新田自治会館前 緑区下山口新田17[地図]八丁から東へ向かい、芝川を越えて400mほど先、見沼大用水東縁の手前、道路左側に下山口新田自治会館がある。その入口に石塔が立っていた。その奥、物置の向こうに小堂が見える。庚申塔 文化2(1805)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面、浮き彫りされた日月雲の下に「庚申搭」下の台の正面に「講中」塔の左側面に造立年月日。右側面に足立郡 下山口新田と刻まれていた。小堂の中に六地蔵菩薩塔と中央にひときわ大きな石塔が並んでいる。中央 六地蔵菩薩供養塔 文政4(1821)角柱型の石塔の正面「奉建立六地蔵大菩薩」両脇に造立年月日。左下に願主 清心。塔の上にごつごつとした磐座が乗り、さらにその上に石仏が乗っていた。磐座の上には丸彫りの普賢菩薩坐像。ゾウの上に乗り経典を広げ読む。石塔と磐座の色が違い、六地蔵菩薩塔の主尊に普賢菩薩というのもちょっと違和感があり、石塔の上の部分は本来のものではないのかもしれない。六体の地蔵菩薩像はその像容も舟形光背もよく揃っている。光背に戒名などが刻まれ、その命日は宝暦6(1756)から文政2(1819)に渡っているが、その銘の字が中央の石塔と同一で、おそらくこの六地蔵菩薩塔は中央の供養塔といっしょに文政4年に造立されたものではないだろうか。以上で緑区の南西部の石仏を終わります。次は北西部、三室を中心とした地域に移ります。