私家版 さいたまの石仏

2015/08/17(月)17:11

和光市新倉 長照寺の石仏

和光市の石仏(15)

ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら 今日から「和光市の石仏」シリーズに入ります。北から南へ、新倉、下新倉 白子、本町、中央、南と取り上げてゆく予定です。和光市を回って感じるのは 坂が非常に多いことです。荒川沿いや白子川沿いは低地で、新倉方面の台地に 向かって多くの急な坂道があり、台地の中にも谷があったり、外環道の側道を 走って見るとアップダウンの連続に驚かされます。もうひとつの特徴は市内に 外環道と笹目通りという二つの大きな新しい道路ができたために、古くからの 地域の道が分断されているということです。古くから続いた地域の繋がりが これによって切り離されてしまうということもあるような気がします。 またいっぽうで、それによって失われた石仏も多いのではないでしょうか。 長照寺 和光市新倉3-3-35 新倉坂下の和光新倉郵便局の裏手にある長照寺。整備された山門の奥に 平成15年竣工の新しい本堂が見える。手入れの行き届いた境内は明るい。 参道の左側、水屋の先、右に新しい六地蔵。左側には石塔が並んでいた。 その後の山?いっぱいに墓地が広がっている。 左端から 地蔵菩薩立像。右手の錫杖の先が欠けている。カビも全体に多いが 顔の彫りははっきりしている。 台の正面 講中 三十四人 願主上原氏と刻む。右側面に 武州新座郡上新倉村。 左側面には 宝暦と読めるがあとは読み取れない。 庚申塔 天和3(1683)和光市内では最も古い庚申塔のようだ。上部中央に 「令法久住利益人天 奉造立庚申供養如件」その両脇に造立年月日を刻む。 さらにその下、両脇に武州新座郡 上新倉村と刻まれていた。 正面下部はもう一段彫りくぼめて窓を作り、その中に大きめの三猿を彫る。 三猿の下の部分には富岡氏、上原氏など8名の名前が刻まれている。 庚申塔 宝永7(1710)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭上の梵字は「ウン」か? 光背右「奉造立庚申供養成就之処」光背左に年号。さらに武州上新倉村と刻む。 足元 二鶏は比較的しっかり、邪鬼は心なしか情けない。三猿は正面向き。 塔の左側面 下部に十数名の名前を刻まれていた。右側面にも十数名。合わせて 三十名近い講中になる。 天保9(1838)のこの石塔は何だろう?正面「□狗畜門善女」初めの字は矢に のぎヘンに女、漢字バラバラで考えてもわからない。下に彫られているのは 「狗」=犬だろうか?塔の左側面には施主 當寺 法印諦龍と刻まれていた。 下の台は字がほとんど読めないが右に施主と見えている。謎の石塔だ。 馬頭観音の文字塔が二基。いずれも大正6(1917)建立。施主は個人名だった。 如意輪観音坐像 享保8(1723)頭上に梵字「キリーク」右に妙散禅定尼とあり 個人の墓塔ではあるが、大変美しい。 下の台の一部は土に埋もれている。右端 文政三。真ん中に地蔵、その下は横に 世話人、左に女講中と見える。上の像の台ではないのかもしれない。 最後にまた三猿庚申塔 天和3(1683)日月雲の下に造立年月日が刻まれている。 三猿の体に合わせて窓部を彫り、ちょこんと座った三猿がかわいい。面白い 構成だ。三猿の下には大熊氏二名の名前が刻まれていた。 石塔の裏の墓地に登ってゆくと、左手に歴代住職墓地がある。その入口左に 如意輪観音坐像。階段を登った右に地蔵菩薩像が立っていた。 如意輪観音坐像 寛文13(1673)六臂。光背上、真ん中に年号。この位置は珍しい。 その右脇「敬白奉造立如意輪観音之尊躰」左脇に「所供養唱満念佛一結衆如件」 光背下部、両脇に渡って武州新倉郡上新倉村と刻まれている。足の下 ひらがなで 20名近い女性の名前が刻まれていた。 地蔵菩薩立像 寛文3(1663)右手に立派な錫杖、左手に宝珠を持ち静かに佇む。 こちらも光背上部真ん中に年号。右脇「敬白為令法久住利益人天」左脇には 「所造立日待供養如件」と刻まれている。右脇の銘は天和3年の庚申塔の銘と、 左脇の銘は上の如意輪観音と同じ表現だ。光背下部の両脇には施主だろうか 8名の名前が刻まれていた。如意輪観音も地蔵菩薩もともに品がよく美しい。 寛文期の石仏は比較的きれいなものが多いような気がする。なぜだろう?

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る