2019/03/17(日)12:42
岩槻の庚申塔を考えるー概論ー
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前回まで岩槻区の庚申塔をまとめてきました。もう一度整理してみます。
〇地域的分布を見てみよう。
文字塔 像塔 合計 道標 %
旧慈恩寺村 25 14 39 14 36
旧河合村 10 12 22 5 23
旧岩槻町 8 13 21 1 5
旧川通村 24 30 54 5 9
旧柏崎村 6 12 18 1 5
旧和土村 11 19 30 3 10
旧新和村 17 31 48 6 13
合計 101 131 232 35 15
〇造立年によって整理してみよう。
年号 文字塔 像塔 合計
承応 1 0 1
明暦・万治 0 0 0
寛文 7 2 9
延宝 5 1 6
天和 1 3 4
貞享 1 6 7
元禄 2 26 28
宝永 0 9 9
正徳 1 8 9
享保 3 20 23
元文 0 2 2
寛保 0 1 1
延享 1 0 1
寛延 0 3 3
宝暦 6 7 13
明和 4 9 13
安永 1 6 7
天明 3 2 5
寛政 6 11 17
享和 2 1 3
文化 12 4 16
文政 8 1 9
天保 5 2 7
弘化 2 1 3
嘉永 7 2 9
安政 5 2 7
万延 0 0 0
文久 3 0 3
元治 3 0 3
慶応 2 0 2
明治 2 0 0
大正 1 0 0
昭和 0 0 0
不明 5 3 8
合計 101 131 232
今回見た限りでは岩槻区最古の庚申塔は、承応2(1653)に造立された仲町の六地蔵堂にある板碑型の文字塔で、これは邪鬼も三猿も持たない純粋な文字塔だった。続いて寛文、延宝、天和の約15年の間に文字塔13基、像塔6基が見られるが、この初期の文字塔のほとんどは板碑型で、とりわけ仲町の浅間神社に並ぶ三基の庚申塔はこの時期の板碑型三猿庚申塔の様子をよく表している。
岩槻区の庚申塔の中で最初の像塔は馬込の満蔵寺の薬師堂の中の2基だが、その主尊は薬師如来と不動明王になっていて、青面金剛主尊の像塔となると慈恩寺観音南路傍の延宝9(1681)の庚申塔が最古のもので、舟形光背に合掌型六臂の青面金剛像が浮き彫りされている。さらにその翌年天和2(1682)表慈恩寺の表慈恩寺公民館裏に立つ庚申塔が続く。その後、貞享、元禄、あたりから一気にその数を増やしてゆく。天和(1681)~享保(1736)までのこの時期は青面金剛を主尊とする庚申塔がその主なもので、55年間で建立された80基の庚申塔のうち文字塔はわずかに8基だった。
その後宝暦、明和、天明年間にも庚申塔が多く見られる。この時期は文字塔もその数を増やし全体の3割が文字塔になるが、初期の板碑型とは別物で、その多くは角柱型の文字塔だった。
次の寛政期は独特の青面金剛庚申塔が多く造立されたが、これが像塔の最後のピークで、続く文化、文政、天保には像塔はめっきりその数を減らし、その40年間でわずか7基、その間の文字塔は25基で、ここからは文字塔がメインと言えるだろう。青面金剛庚申塔は安政3(1856)の長宮香取神社(下)の角柱型の庚申塔を最後にその姿を消し、以後は文字塔のみとなってゆく。
〇岩槻区全体で232基の庚申塔を確認できた。これまでに当ブログで取り上げたさいたま市内の庚申塔は
桜区 44基 南区 47基 浦和区 29基 中央区 26基
西区 66基 大宮区 21基 北区 32基 見沼区65基
緑区 111基 岩槻区を除くさいたま市合計441基
岩槻区の庚申塔を加えるとさいたま市の庚申塔の総数は673基になる。
各区の面積の違いがあるので比較は難しいが、232基というのはここまで最多の緑区の111基の倍以上の数字で、やはり岩槻区は庚申塔が多い地域と言えるだろう
〇道標について
232基の庚申塔のうち道標35基というのは思ったより少ない数字だった。道標庚申塔は御成街道の通る旧慈恩寺村に多く、地理的な問題もあるかと思われる。もう一つ大きな要素として、造立時期の問題がありそうだ。道標を兼ねた庚申塔35基の造立年を調べてみた。
寛文、元禄など初期の庚申塔には道標銘はまったく見られず、はじめて道標銘が現れるのは正徳4(1713)馬込の大六天神社前三差路に立つ角柱型の青面金剛庚申塔、続いて享保5(1720)長宮の庚申塚にある角柱型の青面金剛庚申塔、そのあとは30年ほどはなれて、宝暦2(1752)慈恩寺地蔵堂の角に立つ文字塔あたりから明和、安永、天明と本格化し、江戸時代後期からは文字塔の増加につれて道標もその数を増やしてゆく。
江戸時代の農業生産は元禄期あたりに急速に発達したということで、その発達の結果、生活の向上を背景に街道の整備、宿場の確立など、広範な交通網が出来上がっていったのだろう。江戸時代後期以降、共同体の枠を超えた人々の往来が一般的になってゆく過程で道標も増えていったのではないだろうか。
〇岩槻の庚申塔にはいくつか特徴的なタイプがある。まずは「岩槻型」庚申塔
一般的な六臂の青面金剛像の場合、体の前の手(第1手としてみよう)が合掌するか、剣(時に鈴なども)とショケラを持つことが多く、それによって合掌型六臂とか、剣・ショケラ持ち六臂というように分類してきた。どちらのタイプでも後ろの二組の手は上の手(第2手)は戟と宝輪、下の手(第3手)は弓矢を持つのが普通で、時に羂索などの法具を持つものもある。ところが岩槻においては合掌型でありながら第2手の左手に(まれに第2手の右手、第3手に)ショケラを持つ青面金剛をかなり頻繁に見かけることができた。以前さいたま市の見沼区でいくつか出会ったことがあったが、他の地域ではほとんど見ることがない。見沼区は地理的に岩槻に近く、この型の庚申塔を「岩槻型」と呼びたい。
〇次に興味深いのは自由奔放な三猿
このタイプの三猿は角柱型の文字塔の台の正面に彫られることが多い。片手使い、あぐら、寝そべるなどいろいろなパターンがあり、いずれにしてもお行儀よく座ってはいない。「岩槻型」同様、見沼区あたりでいくつか見かけた。とりわけ片柳の二基の庚申塔の三猿は見事で、台の裏面に岩槻の林道石工 田中武兵衛の名前が刻まれていた。
(2014.10.06の記事を参照)
〇もうひとつ、寛政期以降にみられる細密な彫りの青面金剛。これも結構目につく。
裾が跳ね上がった衣装の青面金剛。岩槻以外でも見かけたことがある。
〇その他、青面金剛が二匹の邪鬼の頭を踏むタイプ、正面に大きな三角形、両こめかみのあたりに小さな三角形に髪を結い上げた青面金剛なども特徴的で、余裕があれば取り上げたい。
次回は「岩槻型」庚申塔を年代順に整理してみます。なにか新しい発見があるでしょうか?