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汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる 汚れつちまつた悲しみは たとへば狐の革衣 汚れつちまつた悲しみは 小雪のかかつてちぢこまる (略) 名吟であろう。 詩集「山羊の歌」の絶品である。 これだけで中也の詩人たる由縁がわかろうというものである。 次の「在りし日の歌」は30歳という若さで結核性脳膜炎で死去する 中也の生前に自選していた詩を編んだものである。 なんにも訪ふことのない、 私の心は閑寂だ。 それは日曜日の渡り廊下、 ─みんなは野原へ行つちやつた。 板は冷たい光沢をもち、 小鳥は庭に啼いてゐる。 締めの足りない水道の、 蛇口の滴は、つと光り! (略) そして「雪の賦」 雪が降るとこのわたくしには、人生が、 かなしくもうつくしいものに─ 憂愁にみちたものに、思へるのであつた。 その雪は中世の、暗いお城の塀にも降り、 大高源吾の頃にも降つた…… また「雲」 山の上には雲が流れてゐた あの山の上で、お弁当を食つたこともある…… 女の子なぞといふものは、 由来桜の花弁のやうに、 欣んで散りゆくものだ 近い過去も遠いい過去もおんなじこつた (略) さいごに「夏の悲運」 とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。 思へば小学校の頃からだ。 (略) 俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。 大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。 やがて俺は人生が、すつかり自然と遊離してゐるやうに感じだす。 (略) 中也の詩は萩原朔太郎の精神を受けつぎ、しかももっと民謡的な親しさ をかもし出す。 詩人という困難な生活者をぎりぎりに演じ、斃れたといえまいか。 戦争もそろそろ近づいてくる。国民総動員もすぐ目の前である。 詩人はつらい生業ではなかろうか。 「汚れちまった悲しみ」を歌うのであるから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年12月22日 14時07分28秒
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