カテゴリ:思想
八月十五日が巡ってくる。 一般には「終戦記念日」だが、公式の呼び方は「戦没者を追悼し平和を 祈念する日」だそうだ。祝日ではない。 国民の大半にとってあの日は実感として戦争が終わった日だっただろう。 形勢不利になってからも戦争は指導者の隠蔽と糊塗のうちに何年も続いた。 爆撃の中を逃げ回った日々がようやく終わった、その安堵感は想像できる。 では、二重橋前に坐り込んで泣いた人々は何を思ったのか? 安堵感と共に敗北感もあったのではないか。 スポーツでは正々堂々と戦えばいい、勝ち負けは二の次などと言うが、そ れは欺瞞。誰だって勝ちたいに決まっている。 負けたことの悔しさ、恥辱の感情を日本人はどう始末したのだろう。 空襲警報が鳴らなくなったから戦争が終わったことはわかった。 次に小柄な昭和天皇と大きなマッカーサー元帥が並んだ写真を見て、国が 負けたということを否応なく納得した。 そして、そのことはなるべく早く忘れるようにした。 昔から自然災害の多い国だったから、ひどい目に遭ってそれを忘れるのには 慣れている。 国内にいた者は忘れるようにしたし、遠い戦場から帰還した者は何も語らな かった。彼らは負けておめおめと戻ったのだ。言うことなどあるはずもない。 遠い戦場に送り出された作家・大岡昇平は晩年、芸術院会員に推挽されて 「自分は捕虜になった身であるから」と言って断った。 彼にとってそれは恥だった。日本人ぜんたいに対して彼はその恥を負って生き、 旧日本軍の中枢にあった人々に対しては『レイテ戦記』などを通じて責任を追 及した。 ではなぜ彼は病床にある昭和天皇について「おいたわしい」と言ったのだろう? 旧日本軍の頂点にいた人物と見ればこの言葉は出てこないはずだ。 大岡昇平は昭和天皇をも恥を負った者として見ていたのではないか。その重苦 に耐えて、冷戦における米ソの力関係が自分を在位のままに置いたからその責務 を全うした。激動の人生だったが、死の床についていちばんの悔恨は、史上初め て夷狄に対する敗戦の天皇になったこと、先祖への申し訳のなさだった。 大岡はそれを共有した。 (朝日新聞8月6日「終わりと始まり」) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年08月22日 18時49分21秒
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