自白第一主義
日本人は、なんでも謝ってしまうところがある。時として、単に自分が居るだけで他者の迷惑になると考えているのではないかという印象さえ与える。一般化された謝罪のことばがそのまま<誠実さ>を表明するという風土をもつ。だが、市民の監護者(警察)が要求する本当の謝罪は、過失や犯罪に直接かかわるものでなければならない。厳粛であるべきだ。そこで、容疑者に自白させることが警察の主要な仕事になる。こういった状況のもとでは法律で保証された個人の権利を主張しても通らない。警察も検察も、なんぴとも自己に不利益な供述は強要されないという憲法の保証を無視しても、犯罪を認めさせることに多大な重点をおく。強硬に自白を求める日本の捜査当局は度を越していると見て、1983年には、月刊誌数誌がこの問題を取り上げた。そこで明らかになったのは、容疑者の権利を無視して自白を迫るのはザラで、時には事実上の拷問が警察の留置場で行われているということだった。その後もくり返し不法がおこなわれている可能性が確認された。たとえば警察は、あからさまに圧力をかけなくとも、容疑者から自白を引き出す有利な立場にある。日本では起訴前には保釈する制度も、公費で弁護士をつける制度もなく、もしついても弁護士と被疑者は、捜査官の「指定」に従わなければ面会できない。この結果、ほとんどの被疑者が、弁護士と相談することもできず、長い間、警察に拘禁されて取り調べを受けるのである。警察にとってもう一つの強みは、日本人以外の者には全く必要がないと思えるような謝罪を、日本の社会が本気で是認するという風土である。日本人は身に覚えがなくても人からよくないと思われたら単に<誠実さ>を示すためについ許しを乞うてしまう。(御免なさい、済みません等)いずれにせよ警察に逮捕されるのは恥ずべきことであるから、その耐え難い恥辱感を罪の告白に転化すれば楽になる。というのは罪のほうが対処しやすいからである。罪は、恥とちがい、つぐなえるからである。そのように容疑者を誘導する技術にも相当の歴史がある。取調べ官以外のすべての人との連絡を絶たれ、拘留中の身でも権利があることを知らされぬまま、容疑者は心理的に警察に従うようになり、犯してもいない罪を自白してしまう者が多い。それも、自白すれば不起訴にするが、取調べに協力しなければ更に重い罪で刑務所送りになると言われれば、なおさらである。もし容疑者が取り調べに協力せず、警察がどうしても自白が必要だと判断すると、微妙な脅しの手が使われるかも知れない。家族を引き合いに出すも一手だ。単純で世事に疎い容疑者が、自白しなければ父母も逮捕されると脅かされた実例も相当数、記録に残されている。今もなお罪はその属する集団や家族に責任があるという考えが、日本社会には残っているからである。自白を拒否する容疑者に対しては、連日、早朝から真夜中まで取り調べが続く。この取調べが心身ともに容疑者を病的な孤立感に追い込む。自白しなければ、生きて家に帰れないのではないかという恐怖心にかられる。極端な場合、用便を許されるのも、自白すると言った場合のみであったといわれる。1981年に日弁連の人権擁護委員会が作成したデータによると一般の常識に反し、誤った自白にもとづく誤審は、戦争直後の混乱期だけの現象ではなく、むしろ増え続けているという。彼ら弁護士の推定では、誤審の60パーセントが強要された自白にもとづいていた。(カレル・バン・ウォルフレン「日本権力構造の謎」より)