飛鳥の興亡
大化改新で知られる中大兄皇子(天智天皇)の母・斉明天皇らの墓と事実上、特定された国史跡・牽牛子塚古墳(7世紀後半・奈良明日香村)の隣で、同時期の古墳や石郭(石室)が見つかり、明日香村教育委員会が9日に発表した。日本書紀は667年2月の出来事として「斉明天皇と娘間人皇女を合葬した墓の前に、中大兄皇子の娘大田皇女を埋葬した」と記しており、今回の発見と一致する。見つかったのは大田皇女の石室と見られる。日本書紀によれば斉明天皇が死去したのは、661年百済救援のため九州・筑紫朝倉に滞在中のこと。皇太子のまま政務にあたった中大兄皇子は百済救援に向かったのだが、白村江で唐・新羅連合軍に大敗した。帰国後、都を近江の大津に移して、668年、天皇に即位した。大化改新以来めざしてきた律令体制の整備に努めたといわれる。「慣れ親しんだ飛鳥との決別の仕事だったはずだ」と奈良芸術短大前園教授は、三人の親族を葬ったわずか三週間後の近江遷都について思いをはせる。都を近江に移す最大の理由は、当時の朝鮮政治情勢に鑑み、琵琶湖周辺の方が国防に向いていたからである。「最愛の女性たちを飛鳥に葬るまでは、遷都できないとの信念があったはずだ。墓造りをやりとげ、遷都と即位を決意したのだろう」(前園教授)大田皇女は中大兄皇子(天智天皇)の長女で、母は蘇我氏の流れをくむ遠智娘(おちのいらつめ)。妹は持統天皇。母は弟の建皇子(たけるのみこと)を産んで間もなく死亡。妹とともに叔父の大海人皇子(天武天皇)のきさきになる。斉明天皇の661年に父や夫とともに朝鮮百済救援の戦争で九州へ赴くが、その途中で大伯皇女を産み、663年には那大津で大津皇子を産む。敗戦で帰京後、天智天皇の即位前に亡くなり、667年、祖母にあたる斉明天皇の墓の前に葬られた。悲運の娘を哀れんで天智帝は篤く葬ったのであろう。さらに遺された大津皇子を寵愛したとも言われる。日本書紀によれば671年10月、持統は皇位継承権を放棄した大海人皇子に従い、吉野に向かった。そして天智天皇崩御ののち、ふたりは壬申の乱を戦いぬいた。戦勝後、天武天皇は都を飛鳥にもどして、持統を皇后にするのである。天武2年皇后となった持統は左右大臣を設けなかった天武天皇の皇親政治という新体制のなかで、実に重大な地位を占めていたとされる。天武の死後、持統天皇は実姉・大田皇女と天武とのあいだの子である大津皇子を謀殺している。さらに、持統の子・草壁皇子が即位することなく逝去すると、今度は自分が天武の皇后という立場を利用して即位している。そして持統は独特な皇位継承ルールを創作して、幼少の皇太子のかわりに、その母や祖母を即位させている。このルールによって幼少や、病弱であった天武系の皇太子なり天皇を、天智系の女帝が支配するという構造にしたのである。すなわちこの権力構造を維持することによって、夫の天武朝を乗っ取り、父の天智王朝の再興をはかったといえよう。蘇我派の皇族天武は、大化の改新による天智の暴走(中臣一族の野望)を批判的にみていた。その天智が死に、武力によって権力を握った天武は親蘇我王朝を樹立したが、その死後、今度は持統によって政権が奪われ、そのあと『日本書紀』が編まれ、完成する。持統は父、天智の政策を継承したため、史書『日本書紀』において大化改新を正当化し、天智を英雄に仕立上げたのである。また大化改新の智謀中臣鎌足の息子・藤原不比等の暗躍も背景にある。『日本書紀』の編纂に最も貢献した人物とも言われる。持統天皇の即位の儀を不比等の私邸でとりおこなったという説さえある。まさに藤原時代の創始ともいえよう。