ホームレスについて
ホームレスについて昨今のメディアの取り上げ方がゆるい…気がする。100年に一度の大不況である。非正規雇用の若者が首を切られ、寮を追い出され、町のネットカフェや、公園に寝泊りし、あげくにホームレスに転落するというご時世である。テレビや新聞の高給を食むキャスターや論説氏が画像を見詰めながら、良心的なコメントを大盤振る舞いしている。そのあとで銀座・赤坂のしゃれたサロンでネクタイをはずし、自分の美辞麗句の反応をうかがい、うっとりするという手筈であろう。誰も「デクノボー」といわれ、一身を草の庵に捨て、病気の人や、失業の人や、老いた人、訴訟の人を助けて静かに笑っているような浮世離れの人物がいるとは思ってはいないのだ。誰も自分の懐金を差し出して、「何でもいいから使ってくれ」とばら撒くような人物がいるとは思っていないのだ。自分の身の安全と富裕を確かめ、ほくそえみ、しかる後歯の浮くような偽善の言葉を世に投げかける。なかには「お前の職の選び方が悪い、よく考えてから出ておいで」などと途方にくれるような説教をたれる富豪もいる。たしかに世は無常だ。盛者必衰の理もある。運が悪い、コースを間違えたともいえよう。こころつかれて山が海がうつくしすぎるしみじみ食べる飯ばかりの飯である酔中野宿草の中に寝ていたのか波の音酔いざめの星がまたたいてゐるどなたかかけてくださった筵あたたかし山頭火である。ホームレスの第一人者だ。いわゆる勝ち組の「上から目線」のキャスターや代議士諸氏など束になってもかなうまい。ホームレスの問題や悲哀など安っぽいコメントですり抜けている偽善の人々にかれは断言する。「今日、途中で巡査に何をしているかと問われて、行乞をしていると答えたが、無能無産なる禅坊主の私は、死なないかぎり、こうして余生をむさぼる外ないではないか」波音遠くなり近くなり余命いくばくぞこの世でこまっている人に功徳をする…デクノボーとしてほめられもせず苦にもされず草庵にいて待機するのがほんとうの生き方なのであろう。立派な寺院にいて奥深く鎮座して説教の想を練っているなどは馬鹿の十三乗である。