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カテゴリ:気付き・想ひ
毎度おなじみ『今日のダーリン』を読んでいて、
「岡目八目」 という言葉の意味を初めて知りました!!!W(°o°)w ヤダW(°o°)w 知らなかったW(°o°)w ≪広辞苑≫より 岡(傍)目八目(おかめはちもく) 他人の囲碁を傍で見ていると、実際に対局している時よりよく手がよめること。 転じて、第三者には、物事の是非、利・不利が当事者以上にわかること。 「おかめはちもく」って、音では耳にしたことあったケド・・・W(°o°)w 私、これ書いた時、この言葉知らなかったのですよね。 ↑の中にこれもリンクしてるケド、要するにここでは囲碁でも将棋でも同じことですもんね。 昔の人って、やっぱりスゴイな。 私の考えることなんて、みんな、昔の人が一度は考えたことあることばっかりね。 当たり前みたいですケド( ̄▽ ̄:) 糸井さま大好き。 糸井さまの書かれることって、いちいちグッとくる。 ホント、そう思う。 今日の『今日のダーリン』より 「ほぼ日」を読んでくれてる方々には、 すっかりおなじみになっている <多忙は怠惰の隠れみのである。>ということばは、 ぼくの高校時代の国語の先生に教えてもらったのですが、 この先生は、他にも、いろいろ教えてくれてました。 「眼高手低‥‥と言ってなぁ」と、 ぼくら高校生たちがあれこれしゃべっている場で、 話をしてくれたことがありました。 その話の内容はなんだったか忘れたのですが、 「眼高手低」ということばのほうは、 とてもよく憶えています。 「他の人の作品については、あれこれ批評するんだけど、 じぶんで書くと、たいしたものが書けない」 つまり「眼(鑑賞)ばかりが高くて、手(技)が低い」。 笑わないで読んでくださいよ‥‥この、先生のことばを、 平凡な高校生のぼくは「あ、おれのことだ」とね、 思ってどきどきしちゃったんですよ。 かわいそうに、というか、お恥ずかしい。 つまり、ぼくなんか「眼高」ですらなかったんですよね。 ほんとうに「眼高」だったら、 多少は「手低」の手だって利いてるんじゃないのかな。 なんて、いまごろ気づくくらいアホだったわけです。 技術が、実力があるって、なかなか難しいことです。 そして、眼が高いという人も、そうそうはいない。 だから、ほとんどのケースは、 「眼高手低」というより、「眼低手低」なんですよね。 まぁ、「手」の修練には、絶対的な時間もかかるし、 出来不出来の結果も見えやすいから、 なかなか手のことは、みんな手を出さないわけで。 引用や知ったかぶりで、 「眼」が高いふりをするくらいなら、 ちょっとの手間と演出で、なんとかなるからなぁ。 「口」の手助けもあるしね。 高校時代の先生の教えてくれた「眼高手低」は、 いまでも、ずっと学びの材料になっています。 今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。 「岡目八目」というのも、なかなか味わいのあることばだ。 ブログなど書いていると、電子空間の向こうにいろんな「想念」を感じるのですが、 一番うっとうしくて邪魔くさいのが、上記のような真理がらみの「想念」です。 自分の対局を放棄して、他人の対局の批評で「やった気」になってる「想念」。 時に、ブログやめようかと思っちゃうくらいうっとうしいのです。 でも世の先達、賢者の皆様が、 そういう現象をちゃんと言葉にして表現して、こうして残してくださっていると知ると、 心が安らぐわけなのです(〃∇〃) 自分の「対局」を一所懸命やってる人は、 他人の「対局」のほうが簡単に「見える」気がすることを知ってるし、 自分の「対局」に取り組む方がよっぽど難しいことも知ってるし、 だから他人の「対局」に口出ししてわずらわせたりもしないでしょ。 いつかの「踊る阿呆に見る利口」ともソックリね。 と、いうワケで、糸井さまと先達賢者の皆様のお蔭さまで、 また自分の「対局」に取り組んでいく気力が出た私だったのでしたー(≧▽≦) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011年10月24日 00時56分38秒
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