|
カテゴリ:カテゴリ未分類
イザヤ書41章を読んで思うこと。それは、「神の法廷での論争」について。
神の義による法廷において、異邦人とイスラエルに対して、神は確かな約束を示します。 強国アッスリヤの勢力に、翻弄されて苦しんだ異邦人。神は彼らに対して、法廷を開いて語られます(1〜7)。預言者イザヤは、歴史の舞台の主役である全能の神を、ここで示します。 「海沿いの国々よ、静かにして、わたしに聞け。もろもろの民よ、力を新たにし、近づいて語れ。われわれは共にさばきの座に近づこう。」(イザヤ書41:1) 次に異邦人だけでなく、イスラエルの民に対しても、神は確かな保障がある事を示します(8〜20)。選ばれた民イスラエルは、神の友であり、アブラハムの末への約束を、すでに得ています。 しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ、わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。(イザヤ書41:8〜9) 最後に再び、異邦人に対して、法廷を開きます。再び主は語ります(21〜29)。「偶像が本当の神ならば、未来についての預言が可能であろう、その証拠をみせよ」と語ります。 主は言われる、「あなたがたの訴えを出せ」と。ヤコブの王は言われる、「あなたがたの証拠を持ってこい」。(イザヤ書41:21) あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。(1コリント書1:30〜31) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024/04/07 04:31:57 AM
|