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盲人村長 森恒太郎という人

森恒太郎伝(川東松山大学経済学部教授)

1.生い立ち

 森恒太郎は元治元(1864)年、伊予郡西余戸村(現松山市)に生まれ、明治9(1876)年愛媛県変則中学校(のち、松山中学校、現在松山東高等学校)に入学し、校長草間時福の自由民権思想の影響をうけ、早くから政談演説を行うなどしている。
明治14年東京に出て、19年に帰郷。
帰郷したが、恒太郎は戸外に出ず、もっぱら読書三昧の生活をしていた。
明治19年9月、降り続く豪雨により石手川の堤が切れ、余土村は大洪水に見舞われ、甚大な被害をうけた。
この村と村民の惨状に恒太郎が目覚め、村の復興運動を興し、20年10月には、村内有志と図ってのちの農会の母体となる余土村農事懇談会を組織した。
 また、恒太郎は政治活動分野にも進出し、21年に高須峰造らとともに改進党の支部を結成し、23年には県会議員に出て当選した。
しかし、その後、彼は政治屋なるものを嫌い、26年政界を去り、実業界に転じた。
 
2.盲目となる

 明治27年7月、日清戦争がおこり、明治天皇は9月大本営を広島に移した。
恒太郎は天皇を迎えるために愛媛県民代表として広島に赴いた。
だが、天皇を仰ぎ見た日の翌朝、眼を患い、治療の甲斐なく、29年失明してしまった。
恒太郎、32歳の時であった。
 盲目の身となった恒太郎は失望落胆。
妻に苦労をかけさせまいと断腸の思いで離別し、また、老母にも苦労をかけさせまいと、一人で余土に独居していたが、失意のあまり、三度にわたり自殺を図るなどした。
また、死を覚悟し、三度の食事を断つことなどもした。
 
3.開眼

 ある日のこと。
 食事中に一粒の米が膝に落ちた。
 その一粒の米を探し求めて豁然(かつぜん)として悟るところがあった。
それは「僅かに指頭(しとう)に拈(ねん)じ得られる一粒の飯にも、殆ど量るべからざる重さのあること」を知った。
そして、幼児より家庭にて母より教えられた、
「ただ一粒の飯といえども是を粗末にしてはならぬ。若し粗末にする時は眼が潰(つぶ)れる罰が当たる」との訓戒を思い出した。

一粒の米はなぜこのように尊敬をうけているのであろうか。

その意味を考え、ついに悟った。

 一粒の米が何故貴いのか。
森恒太郎は考えた。
米は日常の食物となって栄養を与えている、生命を与えている。
しかし、それだけでは一粒米を尊敬する理由にはならないと、斥けた。

恒太郎は一粒米に次のように語らせた。

 「我は今ここに一粒の米と生まれた。・・・
我れ一粒の米に於ては、空しく草の実たるに終るを以て、満足すべき性質ではない。
此の上の向上を遂げねばならぬ。
一度人の口に入り、胃腸に消化せられて、万物の霊長たるその人と同化し去るの向上を遂げなければならぬ。・・・
向上する為めには、痛みも苦しみも厭う所でない。
生きながらにしてその皮膚を剥がれよう。
又進んで石臼に挽かれては粉となろう。
炮烙(ほうらく)の中に入って肉を焼かれ、身を焦がされよう。
なお鍋中の熱湯に身を投じて、熱するまで烹(に)られよう。
かくの如く危難を恐れず水火を避けず、粉骨砕身するは我の厭う処でない。・・・・
是ぞ我が本懐とする処であって、又向上する手段である。
向上せんが為には百難千苦も敢て厭う処でない。
進んでこの苦労を受けんとするものである」
と。

 このように考えた恒太郎は、自己を大いに恥じ、一粒の米の粉骨砕身の努力に比べ、自分は両眼を失った位で失望し、挫折し、只死のみを考え、何と意志薄弱ではないかと。
今後は「手折れても、足折れても、身裂き、骨を砕きても奮闘一番しなければならぬ」と決意し、悟った。
そして、恒太郎は比叡山に行き、修業に励んだ。

4.村長となる

 比叡山での修業中、余土の村民が恒太郎を訪ね、村長の就任を要請した。
恒太郎は盲目の身の自分に村長を要請するなど、この村民の大胆さに驚き、任務を遂げられないと再三辞退したが、村民の熱意に応えて、ついに村長を引き受けることを決意した。
明治31(1898)年、恒太郎、34歳のときであった。
 恒太郎は村長に当選したが、愛媛県は恒太郎が盲目であることを理由に認可しなかった。
それに対し、恒太郎は敢然と闘った。
盲人だからといって公民としての資格に欠けるところはない。
それを不認可とは「人権蹂躪」であり、「認可権の不法濫用である」と糾弾し、もし、不認可となったならば、「私一人の権利が蹂躪せらるるのみならず、我国盲人界の脅威である、幾万の盲人は公的生活より葬らねばならぬ結果を招来するに至る」と言い、ついに認可を勝ち取った。
盲目の身でありながら余土村長になった森恒太郎は、明治31(1898)年から40年まで10年の長きにわたって、村長を務め、村民のため数多くの実績をあげた。
村会では番号札の後に座るような形式的なことは避け、炬燵(こたつ)会議と称し、恒太郎の居室で爐を囲み、皆が自由に意見を述べあい、納得の上で議事を決めるやり方をとった(民主主義的合意形成)。
また、村の吏員には村民に対して親切と丁寧の平民的態度で接するよう指導した(公的観念の形成)。
また、村民にも官依存でなく、自治精神を涵養するよう説いた。
そして、特筆すべきは、「村を治めんとするにはその対象たる村の研究に出発せねばならぬ」として、明治32年から余土村の実態調査を行い、翌年「余土村是調査書」をまとめた。
この調査により「村是」を定め、小学校教育の改善、青年教育の実施、耕地改良、勤倹貯蓄、共同購入、小作人保護、副業奨励等の施策に次々と取り組んだ。
そのうちの幾つかの成果を挙げると、今日の児童は将来の公民であるとして、小学児童に「余土村是」を教材とした活きた公民教育を行った。
また、「余土村児童役場」なるものを設け、毎月第2、第4土曜日に児童役場を開き、事務を執らさせたり、日曜日毎に小学児童に村民の貯金の集金させたり、早くから村民としての自覚、公民観念の養成を行った。
さらに、土に親しむ教育、農業教育も重視し、学校栽園を全国にさきがけて設置した。

 青年教育にも力を入れた。
小学校の旧校舎に青年を集め、国語、算術、公民、修身、経済、農業、等の科目を教えた。
恒太郎自らも授業を担当した。
そして、青年団員に村民のため、天気予報の通知、道路の修繕、養水路の掃除や短冊型苗代や正条植え等の新しい農事改良にも取り組ませた。
その他、読書を奨励するため、文庫ならびに新聞縦覧所を開設するなどした。
また、娯楽も重視し、運動会を開いたり、青年を県外に旅行させたりしている。

 恒太郎は教育を重視するとともに、すでに矛盾が現れていた地主・小作関係の改善、小作人保護にも取り組んだ。
恒太郎は地主から田畑一反歩につき毎年米一升を拠出させ、それを積み立て、小作人保護のために当てることを考え、明治33年から、自ら頭陀袋を首にかけ、草鞋を履いて、地主の家を個別訪問した。
一部に強硬な反対者あり、辞職勧告の迫害も受けたが、屈せず、小作人保護の理想を掲げ、やり抜いた。
住民のために献身的に身を捧げる、その恒太郎の不屈の精神は、驚嘆すべきものがある。

最近よく夢を見る。

今朝、夢で座禅会の終わりなのであろうか、お寺の広い庭の一角で、盲目の先生が集った参禅者たちにトツトツと語られている夢を見た。

それがとてもいい顔なのだ。

心の様相がそのまま顔に現れたようで温容であって、話しぶりも聴く者を魅了せずにはおかない。

目が醒めて、思うにこれは先日、図書館で「斯民」を読んでいたとき、盲目の村長の話が出てきてそれに感動したせいであろうかとも思われた。


愛媛県の盲村長 

次に壇上に立たれたのは、愛媛県温泉郡淀村の有名な盲目の模範村長 森恒太郎 氏である。
氏は『小作保護米』と題し、力ある声容を以てと曰く。

14年前から、私の生涯は暗夜となった。
前年余は人丸の祠に詣でて
「ほのぼのとまこと明石の神ならば、我にも見せよ人丸の塚」
と祈誓をこめたが、
「ほのぼのとまこと明石の神ならば、我には見えず人丸の塚」
とは今日の私の境遇である。

私は盲目の身を以て明治30年私の故村なる淀村の村長に選ばれた。
私の村は松山市に近く、軽薄の風がはびこり、小作人は狡猾で、地主に納める米をごまかし、地主もまた農を厭いて安逸を貪ったので、青年は僅少の俸給に満足して農事を厭い、ついに小作保護を絶叫せざるべからざるに至った。
今はその保護基金を得んがために苦慮し、ついに二宮先生の教えにならいて、自ら頭陀袋を首に掛け、戸ごとを巡りて門に立ち、一反歩に付き一升の米を醵出せんことを請うたところ、地主の子弟や、小作人などが大いに同情を表して、私の行くところに数十人の行列を作り、一巡回ごとに40石を得ました。
しかし私のこの挙には多くの冷嘲と迫害とが伴い来った。
私のこの挙には毎年一月で寒風肌をさくの時、冷遇と嘲罵とを受け終日立ち往生を為した。
帰り来れば、足は棒のごとくなった。
これはなお忍ぶ事ができる。
ある者は泥棒と呼び、乞食と罵り、あてにせずに待っておれと叫んだが、私はこれに屈せず、数年これを継続してやった。
然るに(明治)37年に至り五六の者が相謀って他を糾合し、小作保護米の寄付を峻拒するの同盟を結んで、ついにはこれを止むるにあらずんば村税納付を拒絶すべしというに至った。
されど私が法律の力を頼んで以てこれを徴収せんとするの態度を示したために、ついに辞職を強迫してきたが、私は断然これを斥けた。
然るに迫害は意外のあたりより私を襲ってきた。
私の子どもに松山の小学校に通学するものがあるが、一日学校から帰り来たって泣いて私の母に、
「坊が学校に行くと皆が乞食の子だ乞食の子だという。家がかく貧乏になったのならば、明日から学校をやめて、父さんに何事もでもしてあげますから、乞食することはやめてもらってくれ」
と訴えた。
涙もろきは老人の常、母は人に向かって「子どもが可愛くないのか、子どものためにこの挙を思いとどまれ」といわれた。
私は母に向かっては、
「百年の後、我が村に一人の乞食を出さないために、私は今乞食をなしているのですから、どうか見のがしてください」と陳謝し、かつ小児に謝しました。

この時、聴衆の目に涙あり、感極まって『言うことを止めよ』と叫ぶものがあった。

氏は更に語を継いで曰く、

「私が集め得た3,000円の金で以て、小作保護のためになしつつある事業は肥料の貸付である。
当時小作人の総代2人が私の許に来て、小作人等もその厚意に酬いんがため、一反歩につき麦一升あてを出さんと申し出た。
私はこの語を聞いて非常なる喜悦を感じ、従来の艱難苦労も全く消え去った。
今日の如き依頼心に富める社会の常状に徴し、私は大いに感謝の意を表した。
されど私は保護の実効を有効ならしめんがため、その申し出を斥け、その精勤忠実ならんことを勧めて彼らを帰らしめた。爾後小作米の改善されたことも著しく、従来は梅雨以後に持ち越せなかった悪米が、今日ではかかる粗悪なるものは一もない様になり、その目方も大いに増大して一俵18貫目以上に上るに至った。私はかかる好果を得たのに励まされ、将来ますます勤めたいと願っております。

報徳講演会(京都)
▲盲目村長の講演 次に愛媛県淀村の模範村長 森恒太郎 氏は、委員に導かれて登壇し、自己がかつて自村で以て実験した、事項の一つである「貯金の徳」と題する講演を試みられた。

明治34年9月以来、一般人士の勤労と節倹とに伴った金をたくわえさせたいと思って、貯蓄を奨励しはじめたが、金を預かることがはなはだ手数であるから、小学生徒を使用してその金を集め、役場から通帳を私自身配付して回った。我が村の戸数は480戸あるが、通帳の数は620余になり、毎日曜に金を集むることにしているが、今日まで集まった金は、23,000余円になっている。
また集金する生徒の報酬としては、村費を以て一円に対し、一銭あて支払う事にしている。
この集金は極めて微なるように見えるが、これが子供の手によって集められたと思えば決して小金でない。
しかのみならずこの集金は一般の貯蓄心を刺激し、34年以来約10万円の貯金が増加しつつあるのである。貯蓄の徳は事業の発展に、大いに益を与えつつあり」

大森知事は森氏を紹介していわれるには、『盲目の身で単独にて役場に起臥し自炊をなしておられる。
これは自分のことは自分でやるということを、口に言わずして実行して見せたものである。』と。


先日、図書館で「斯民」をめくっていたら、それまで未発見の鈴木藤三郎の「分度推譲論」を見つけた。明石講演会の概要であった。そこには他の講師の講演の概要も載っていたが、その中で、愛媛県淀村(現 松山市)の盲目の村長 森恒太郎氏の講演の概要が記載されていて、一読して感動した。
 そして、数日後盲目の師がお寺の庭先でお話される夢を見た。実に温和なお顔で、そのトツトツとした話しぶりは心にしみた。
 そしてその話の指示の通りに動くと「明石講演集」と「報徳講演集」に鈴木藤三郎氏と森恒太朗氏の講演を得ることができた。
 そこで、「分度推譲論」を全文掲載することができたわけである。
 森恒太郎師の導きのお蔭であろうか。

 ちなみに「斯民」の記事の一節を掲げ、その次に「小作保護」 森恒太郎 の講演記録を順次掲載する。

明石講演会
愛媛県の盲村長
次に壇上に立たれたのは、愛媛県温泉郡余土村の有名な盲目の模範村長 森恒太郎 氏である。
氏は『小作保護米』と題し、力ある声容を以てと曰く。

私は盲目の身を以て明治30年私の故村なる余土村の村長に選ばれた。
私の村は松山市に近く、軽薄の風がはびこり、小作人は狡猾で、地主に納める米をごまかし、地主もまた農を厭いて安逸を貪ったので、青年は僅少の俸給に満足して農事を厭い、ついに小作保護を絶叫せざるべからざるに至った。
今はその保護基金を得んがために苦慮し、ついに二宮先生の教えにならいて、自ら頭陀袋を首に掛け、戸ごとを巡りて門に立ち、一反歩に付き一升の米を醵出せんことを請うたところ、地主の子弟や、小作人などが大いに同情を表して、私の行くところに数十人の行列を作り、一巡回ごとに40石を得ました。
しかし私のこの挙には多くの冷嘲と迫害とが伴い来った。
私のこの挙には毎年一月で寒風肌をさくの時、冷遇と嘲罵とを受け終日立ち往生を為した。
帰り来れば、足は棒のごとくなった。
これはなお忍ぶ事ができる。
ある者は泥棒と呼び、乞食と罵り、あてにせずに待っておれと叫んだが、私はこれに屈せず、数年これを継続してやった。
然るに明治37年に至り五六の者が相謀って他を糾合し、小作保護米の寄付を峻拒するの同盟を結んで、ついにはこれを止むるにあらずんば村税納付を拒絶すべしというに至った。
されど私が法律の力を頼んで以てこれを徴収せんとするの態度を示したために、ついに辞職を強迫してきたが、私は断然これを斥けた。
然るに迫害は意外のあたりより私を襲ってきた。
私の子どもに松山の小学校に通学するものがあるが、一日学校から帰り来たって泣いて私の母に、
「坊が学校に行くと皆が乞食の子だ乞食の子だという。家がかく貧乏になったのならば、明日から学校をやめて、父さんに何事もでもしてあげますから、乞食することはやめてもらってくれ」
と訴えた。
涙もろきは老人の常、母は人に向かって「子どもが可愛くないのか、子どものためにこの挙を思いとどまれ」といわれた。
私は母に向かっては、
「百年の後、我が村に一人の乞食を出さないために、私は今乞食をなしているのですから、どうか見のがしてください」と陳謝し、かつ小児に謝しました。
この時、聴衆の目に涙あり、感極まって『言うことを止めよ』と叫ぶものがあった。


小作保護 
 元愛媛県温泉郡余土村長 森恒太郎

 ▲失明の感慨 私はただ今ご紹介にあずかりました愛媛県温泉郡余土村に住まっておりまする森恒太郎でございます。
このたびこの地に報徳会の夏期講習会をお催しになりましたに就きましては、私もこの末席に加わり、先輩諸君のお話を伺いまして、非常に得るところがございました。私はこれを深く感謝致しまする。
なお又この壇上に立って、皆様とこの所にお目に掛りまするのは、この上もなき私の光栄と存じます。
しかしながら私は皆様がご覧なさる通り、この両眼こそ開いておりまするが、既に十余年前より暗黒の中に投げられまして、僅か数歩のこの演壇にすらも、我が一身を運ぶことが出来ないのでございます。
私はかつて明らかに世の中を見た時代もありました、すなわち私の半世は昼であったのでございます。
けれども十余年以前より、常に私の生涯はまた暗となったのでござります。
かつてこの明石の地へ私が参りまして、彼の歌の神なる人丸の社頭に額づきましたときに、
「ほのぼのとまこと明石の神ならば、我にも見せよ人丸の塚」
この歌と、彼の盲杖桜とを見まして、眼の暗き人が、この歌の徳により、一心の信仰により、両眼明らかとなり、その杖を忘れ去ったという事柄を聞きました。
かようにその盲人が眼を明らかにするを得たときの喜悦はどのくらいであったろうかと、そぞろに私は感慨に打たれたことがござりました。
その時はただそれだけのことでござりましたが、その歌を見、その盲杖桜を見ました私が、十余年後の今日、再びこの明石に来りまして、暗黒の境遇ながら、彼の柿本神社に詣で、今より十数年前のことを考えますれば、私にしてもまたこの歌を繰り返さなければならぬ。

「ほのぼのとまこと明石の神ながら我には見えず人丸の塚」

私の境遇はかくのごとくに一変したのでござります。
この不自由なる盲人が、今日のような世の中に立っても、何の仕事も出来ようはずがござりませぬ。
数歩の所にすらも独り身を運ぶことの出来ない身体であります。
さればこの活世界へ立って仕事を為し、又皆様に何かお話を申し上げるというようなことが出来ようはずはござりませぬ。
けれどもいささか私が失明後十年間において経歴しました所の事柄の一端を申し述べまして、皆様のご参考に供するとともに、私のねがいまする所は、このように不自由なる役に立たない者ですらも、幾らか世の中のために働いておるのでござりまするから、両眼明らかにご覧になり、かつ幸福なる、自由なる諸君は、この不自由なる身に比して、充分なる人間の責任というものをば、お果たし下さるように私は願いたいのでござります。


村長として実行せし小作保護 私は沢山の経験を持ちませぬが、明治31年におきまして、私の生まれました余土村では、この盲目の私を選んで村長と致しました。以来十年、私をしてその職にあらしめたのでござります。すなわち眼の見えない、役に立たない、この廃物を、我が村の者が利用致しまして、村長としたのでござります。けれども村長の仕事をしてみますると、なかなかむつかしいものでござります。村長という役は下級の役のごとくでありまするけれども、これを実地にやってみますると、なかなか容易でない。その責任もなかなか軽くない。で私のような不自由の身を以て、これらの責任を完(まっと)うすることは、到底望みのないことでござります。私も初まりにおいて、幾たびかこれを辞し、又自身も非常にこれを恐れたのでござります。けれども村民の強いての願いでござりまするから、私は以来十年間これを勤めました。その間にこれという何らの仕事もござりませぬが、明治33年に各種の統計を集めまして、村是を立つるの準備として、数字の上に、自分の村を調べて見ました。それから村の将来につきまして、項目を定めてこれを実行致しました箇条がござります。その箇条と申しましても、数項の箇条でござりまするから、ここにこの短い時間に、その実行を致しました総てのものを申し上げることはできませぬ。その中の小作保護ということにつきまして、僅かにその実行致しました所の一つの事柄を、今日皆様に申し上げようと考えるのでござります。

 ▲余の失敗談の告白 この小作保護について実行致しました事柄も、先に私はお断りを申しておかなければなりませぬが、この演壇に立ちまして、私はその実行致しました功を誇るのではござりませぬ。正しく私の一身の上から言いましたならば、その実行致しました所の失敗談を致しまするのでござります。すなわち私の不徳を公にするのでございます。私の恥を諸君の前に曝(さら)すのでござります。この失敗、この恥辱を敢えて自ら隠さず、諸君の面前に向かって懺悔致しまするものは、ただただ自己の仕事そのものは、たとえ失敗を致しましても、それ共通している善、すなわち徳そのものは実に神聖にして、我が力以上の力を以て私の失敗をも疵(きず)とせず、私の恥がその徳を傷つけず、そして麗しき一種の光を放っているということを皆様に申し上げたいと思うのでござります。

小作人の悪弊 この小作保護法を実行致しましたのは、どういうような必要によってしましたかと申しますれば、まず明治34年から実行致しましたのでござりまするが、その当時における我が余土村の小作人と地主との有様を、少しく皆様に述べておきたいと思います。固より私の村は、松山市という所に接近いたしておりまするから、兎も角市街の悪風が染まりまして、それがためにどうも種々の軽薄なる人情風俗を現わし来たったのでござります。そうしてこの小作人などは、最もその風習が悪うござりまして、地主は僅かの数でござりまするから、ある場合におきましては、小作人という多数の者が連合致しまして、地主に小作米の引き下げをば迫まりましたような事実もあったのでござります。又多勢の力をあわせて迫るにあらずして、時によるというと、小作人という者が自分勝手の勘定をしまして、例えば一石四斗持って行かなければならぬ所を、一石二斗でよかろうというような訳で、一石二斗だけ持って参り、余の二斗は又明年までお待ち下さいと言って残し置き、遂にこれを納めないというようなこともある。そんなことはまだよろしうござりまするが、地主に持って行きまする米と、それから自分の所に置きまする米とを小作人が区別する。これは地主に持って納めるのだから、悪い米でよろしいというので、自分の所に置く米は、良いやつを撰り出し、そうしてその籾を摺り、これを籐箕(とうみ)にかけ、これを千石通しにかけ、そうして米を一粒撰にし、その中からまた悪いような米を振い出し、それだけは又別の俵に造って、これを地主の所に持っていって納める。甚だしきはこれはまだ地主に持っていくのが良く過ぎる。何でもこれは早く売ってしまうがよろしいというので、自分の米をば他に売り、そうしてどこかに悪い米はなかろうか。米でさえあればよろしいと。他より安価なる米を買い入れて、これを地主の所へ持っていくというような有様である。こういうことも随分盛んに行われました。

 ▲地主厭農の風潮 その上地主もまた弱点を持っておった。先ほど原農学士よりお話のござりましたごとく、近年は農業を厭う傾向がある。私共の村の地主も、段々農業は賎しいもののごとくに考えて、そうしてさまざまに理屈をつけ、農業をしても労力に報いるだけの利益がない。まずこれをあてておいて、自分共は都会にでも出て住む方がよろしいというようになり、自分どもの地方でも、三反なり五反なり、たとえわずかでもその家の家風として土地を造らないという者はなかったのでござりまするが、近年に至っては、そんなことをするよりも、かえってあてて置いた方がよろしいとして、祖先の遺業を廃し、自らこの農業を軽んずるようになりました。既に地主がそういうふうにして、農業を厭うものでございますから、その子ども、すなわち後に出て来まする所の者も、皆農業を厭うのでござります。それ故にあるいは小学校、あるいは高等小学校以上の教育でも致しましたならば、遂にその村はかえって百姓をするような者がないような有様であります。たとえ袴をはいて十円の小学教員になっても、あるいは薄給なる鉄道の切符売りとなっても、百姓は嫌だというような観念があったのでござります。そういう有様でありますから、上の赴く所下又これにならい、一般の者が厭農の傾きを起こしました。既に地主はそれを造ることを厭うものであるからして、土地というものは次第次第に多くなってくる。小作人の方では、この機に乗じ、この弱点に乗じて、ますます今のような悪弊が行われるようになったのでござります。この有様では、我が村のごとき、農を以て立たなければならぬ所では、実に将来が覚束ないのでござります。それで私はどうしても地主と小作人というものの、相互の意思をよく通ぜしめねばならぬ。それにつきましては、是非とも小作保護ということも実行しなくちゃなるまい。この小作保護ということを叫んで、その叫びの下に、温かなる両方の情を通わしてみたいと考えまして、明治34年に小作保護実行の第一着手に上ったのでございます。


☆盤珪禅師のエピソードにある盲人がこう語ったとある。(盤珪禅師語録)

 人間というものは、お祝いの言葉を述べる言葉の裏に悲しみの情があり、お悔やみの言葉の裏に喜びの情がある。これはどんな人間でも同じだ。
 ところが、盤珪禅師だけは貴い人でも賎しい人でも、富んだ者でも貧しい者でも、年とった者でも幼い者でも、誉めるときでも叱るときでも、そのままだ。不思議なことだと。

 どうもこの 森恒太郎 という人の言葉も盤珪禅師と同じようなところがあるらしい。
文は人なりという。この人の喋った講演録の言葉はじかに心に届く趣きがある。」
 じかにその講演を聞きたかったものだと思う。聞く人が涙を流し、「もういい、話をやめよ」と叫ぶほどの真実の言葉を。

 ▲小作保護米の徴集 かくして小作保護法実行の第一着手に上ぼりましたけれども、なお当時は準備の時代でありました。小作保護を行うには、どうしても金がなくてはならぬ。一の基金をこしらえなければいけなかろうと考えまして、保護の資本を造ることに着手をいたしました。それはどういう方法を取ったかと申しますと、殆んど二宮先生の例になろうたのでござりましたが、私自ら首に袋をかけまして、そうして地主より、一反歩に対して一升以上の米を醵出して貰う事を乞うたのでござります。私は不自由なる身を起こしまして、村内の土地を持っておりまする人の門前にたたずんだのでござりました。その袋には、真ん中に小作保護米と書きまして、一方に余土村と書いてある。その袋を私が首に掛け、そうして彼方此方と回り、地主に向かって小作保護の必要を説きました。私がその巡回を始めますると、中には非常に感ぜられた人々もありまして、地主の若い方などが飛び出して来られ、私の後ろから付いて来てくだされた。又小作人にして私の後ろから付いて来て下された人もある。かようにして私の歩きまする後ろからは、ほとんど2,30人の行列が出来たのでござりまする。そうしてその集った米をば車に載せたりして、種々に手伝って下さいましたが、私がこの一巡回を致しますると、大概40石ばかりの米が集りました。この40石ばかりの米を公売に付しまして、その金を積んで置いたのでござります。その翌35年、又36年も引続きこれを行いましたが、37年に至りまして、その事情は後より申し上げますが、ある事情がござりました為に、この首に袋をかけて歩きますることを止しまして、村税としてこの基金を徴収致しました。すなわち一年だけ村税によって基金を徴収致しましたので、現今この基金というものは、3100幾円というものになっております。然るに38年以後は、戦時特別税が継続いたしておりまするものでござりますから、その制限を受けまして、これを徴収することが出来ない。それが為にこの制限の緩む期までは、残念ながらこの積立てを中止いたしているというような有様です。そこで今僅かに3000円ばかりの金でござりまして、まだこれという実際において保護の実を挙げることはできませぬのでござります。

 ▲保護米徴収の困難 今申し上げました通り、私が村内を回りまして、地主の人々の同情を得、一回回れば直に40石ずつの米が集ってきたといえば、誠にたやすいことのようである。それは造作なく出来たことのように、皆様はお感じになるでござりましょうが、しかしその間には種々の迫害を受けたのでござります。この3000円という僅かの金をこしらえまするのにも、実に私の苦心は容易ならぬことでござりました。いずれの村においても、その事情はほぼ同様であろうと思いまするが、当時強制力のある所の村税に致しましても、まだ中にはこれを納めるときに、グズグズいう者すらもあったのでござります。その期限を誤まることもあります。この兵庫県下のごときは、美風到る所に吹いておりましょうから、その期限を誤まるような人は一人もござりますまい。けれども私の郡では、未だ期限を誤まる者もあるのでござります。強制力のある村税でさえも左様でござります。してみると強制力のない任意の醵出、すなわち小作保護基金として出して貰うことを勧めて回りまするに、何の小言なくしてこれが行けるものでござりましょうか。いわんや私の不徳においてをやです。その間に種々の迫害もござりましたが、私は地主地主の門前にたたずんだ。その時期はいつも1月、すなわち米を収穫した後でござりまするから、寒いことは非常に寒い。常に私は運動に慣れず、屋外に出づることの少ない身でありながら、草鞋を履いて、杖にたより、朝から晩まで各地主を回る。するとどこへ行っても大きな顔をしている。その所へ行ってたたずむのでござりますから、別に茶を汲んでぃれる者もなく、腰を掛けよと言って、席を与えてくれる者もない。朝から晩まで終日立ち往生を致しました。かくて日が暮れて家に帰るときには、ほとんど私の足が棒のごとくになっている。指で押さえてみれば指形を存するというような訳で、私の身にとってはなかなか容易でなかったのでござります。然るに自分の身には、たとえそんなことよりも、なお幾層倍の困難が来ても構いませぬけれども、その進行上に種々の妨げを受けました。すなわち地主の家へ表から入ると、
「ソラ森さんがやって来たぞ。これに会うては面倒だ。逃げるにしかず。一の手はこれだ」と言って、裏から逃げる。私は盲人の悲しさ、その逃げるのが見えませぬ。オイ待てということが出来ない。なお横着な者は、家におっても留守を使うというような訳で、幾たびか私の足を労させました。これも私は構いませぬが、中には甚だしいのがある。幾たび行ってもどうしてもいない。他の大字は全部出してしまって、この一人残っておるのであるから、是非これを纏めたいと思って参りますると、
「主人はどこかへ行って不在だ」と言うから、
「近くならば呼んで来てくれろ」と申しますると、
「今麦畑に出て仕事をしている」、
「ああ仕事をしていると聞いては気の毒である。それでは自分がその仕事をしておるところへ行こう」と言って、又小さなるあぜ道をたどりたどり、幾たびか滑りなどして、ようやく私がその所へ行きますと、なるほど仕事をしている鍬の音が聞える。
「オイ今日はこういう訳で来たのだから、ちょっとこの所まで来て話を聴いてくれぬか」と言いますと、その男が
「今私は仕事をしておりまするから、今晩でなければ話を聴くことが出来ませぬ。今晩あなたの家に参りましょう」
「イヤ自分はお前の仕事を止めさせて気の毒だが、わしの家に来て貰っては気の毒である。折角こうしてこの所まで来たのだから、少しだけ聴いてくれい」と言っても聴きませぬ。
そのまま向うを向いて行ってしまいます。
「オイちょっと待ってくれ。他の大字の人は皆出してしまった。お前一人だけ残っているのだから、是非わしの話を聴いて出してくれろ」と言うと、その男が
「アテにせずお待ちなさいませ」とこう言う言葉を放った者もござります。
ほとんど私を愚弄しきっているのでございます。
それから又ある所に行きますると、
「森はこんなことをして、後にはこの米を盗んでしまうのである。貴様は泥棒である。後には取ってしまうのだ、盗っ人だ」と、公然私は泥棒呼ばわりをされました。
今のように訪ねていけば逃げてしまい、家におってもおらぬと言い、なおわしの話を聴いて出してくれと言えば、アテにせずに待っていよと言い、甚だしきは私に向かって泥棒呼ばわりをする、実にその困難というものは一方ならぬものでござりました。


☆ああ、読んでいて法華経の常不軽(じょうふきょう)菩薩のことを思い起こす。

 菩薩は出家者の格好で会う人ごとに「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじるようなことはしません。なぜかというと、あなた達は皆、菩薩の道を行って、まさに御仏になることができるからです。」と言う。
「お前のような乞食坊主にそんなことを言われる筋合いはない」と棒で打ち、石を投げつける。
 それでも菩薩は遠くから、「あなたは菩薩の道を行って、まさに御仏になられるでしょう」と叫んでやまない。

 森恒太郎村長が「小作保護米」と書いた頭陀袋を首に下げて、地主に推譲を説いて回って、「米泥棒」「アテにせずに待っておれ」と悪口雑言を受けてなお寒風吹きすさぶなか歩いていく姿を思う。おそらくは常不軽菩薩のモデルになった僧侶もまたインドにおられたのであろう。
 宮沢賢治は法華経信者で、この常不軽菩薩を詩に詠んだ。そしてそれは最後の手帳で「雨ニモマケズ」の不滅の詩となった。


 不軽菩薩(宮沢賢治)

 あらめの衣身にまとひ
 城より城をへめぐりつ
 上慢四衆の人ごとに菩薩は禮をなしたまふ
 (我は不軽ぞかれは慢
 こは無明なりしかもあれ
 いましも展く法性と菩薩は禮をなし給ふ)
 われ汝らを尊敬す
 敢えて軽賤なさざるは
 汝等作佛せん故と
 菩薩は禮をなし給ふ
(ここにわれなくかれもなし
 ただ一乗の法界ぞ法界をこそ拝すれと
 菩薩は禮をなし給ふ)」
 

 ▲辞職勧告の葉書 かようにしてその間にはさまざまなる迫害もございましたが、その上に私は大恥辱をこうむったのでござります。この小作保護の実行を始めまする明治34年において、私の役場へドンドン葉書が参ります。私は眼が見えませぬから、その葉書を悉く書記をして読み上げさせなければならぬ。
「葉書が参りました」ということでありますから、
「それは何を言って来たのだか、読んで見てくれ」というと、
「小作保護の実行を思い止るにあらざれば村長の職を辞せよ」という無名の勧告書でござります。
私は辞職勧告くらいは何とも思いませぬ。又村長の職に強いてかじりついておりたいとも思いませぬ。けれども既に村民の輿望(よぼう)によって、いったんこの職につきました以上は、その職責をまっとうしなければならないという決心を持っております。然るにこの葉書は、村民のある者が、私に職を辞せよということを勧告するのでござりまして、私がその信任の一部分を失うたということは明らかでござります。それを私の日々使っておりまする書記に読み上げてもらわなければならぬ。役場員一同にこのことを知らさなければならぬ。私の心中はいかに苦しいでござりましょうか。いやしくもその所に村長となっておりまするならば、常に吏員に対しては、幾らか威厳を保たなければならぬ。然るに彼の村長さんは、村の者から辞職勧告を受けておるという一の弱点を彼らに示すことは、私の腹が裂けるようでござります。

 ▲地主等の迫害 それのみならず明治37年に至りましては、今の袋をかけて回ることを廃しまして、村税によって徴収するに至ったのはどういうことかといいますると、ある五六の大字においては、反対があってなかなか出さない。これは大地主中のある者が出さないのでござりまして、彼の小作保護米というようなものは出さないでもよろしい。お前がこれに判さえしたならば、もうそれで出さぬでもよろしいようになるのだろうと言って来た。けれども私はこれを理由なきものとして却下したのでござります。するとちょうど村税の納期でござりましたが、それならば村税を悉く納めないという相談を致しまして、彼らは無謀にも村税を納めぬという同盟を形造りました。けれども村税に至りましては、法律の力によりまして強制することが出来まする。
ここにおいて私はこんな不合理なことをやって来るならば、法律の下において強制してもこれを取ろうという腰を固めました。スルとそれらの人は委員を選び、私に向かって村税は納めよう、その代わりにお前は潔く辞職をしてくれろ。辞職をしてくれるならば、村税は納めるということを申して参りました。これは私に向かっての辞職勧告ではなく、いわゆる一つの脅迫である。この時いかがでありましたがか、私は正しく恥をかいたのでござります。けれども私は決してその脅迫に屈服することを致しませなんだ。それは村全部でなくして、一部分の人の脅迫である。これはいかにも非法なることであると考えましたから、私は決して村長の職を辞することをしなかったものでござります。かくのごとくこの保護実行につきまして、私が恥辱をこうむったということは、全く私の不徳のいたす所でござりますが、天下多くの村長ありといえども、私のごとき迫害、私のごとき不徳、私のごとき大恥をかいた者は沢山になかろうと思います。こういう大恥をかいて、私はこのことを行いましたのでござりまする。

 ▲内部よりの妨害 それから外部よりさまざまなる迫害を受けたばかりでなく、私はまた内部よりも鋭き刃を以て、小作保護実行ということを妨げられました。内部の迫害と申しますれば、私が首に袋をかけて村内の地主の家々を回りましたが、松山の市中に5軒ばかりも、我が村の土地を持っている地主がありましたから、これを残す訳には行きませぬ。故に私は白昼首に袋をかけて、松山の市街を横行致しましたのでございます。スルと世間の評判となり、かつ新聞が「森氏の頭陀袋」と題して、これをうたいはやしました。それが為に一般の人は勿論、子供に至るまで、皆私が首に袋をかけて歩いているということを知ったとみまして、私の子供が松山の学校に参りまする、その子供が学校から帰って来まして、私の母、すなわち子供の祖母に向かって、泣いて訴えて言いまするには、
「坊が学校に行くと、友達が皆、森のおやじは、首に袋をかけて歩いているのである。森のおやじは乞食をしているのである。森は乞食の子だ、乞食の子だという。坊の家はそんなに貧乏になったのであろうか。お父さんは眼が見えないのに、乞食をせねばならぬのであるならば、坊は明日から学校を止めて、何なりとも家の手伝いをしよう。おばあさん、お父さんの乞食をすることだけは止めて貰って下さい」、
こう言って孫が祖母に泣きついたのでございます。
年を取った祖母は涙もろくして、孫のこの訴えに非常に感じました。私が宅に帰りますると、頭からくってかかって
「恒太郎、どうしたのだ。今日は子供がこう言うのだ。この子供が可愛そうではないか。貴様ももう少し仕様があるのであろう。そういうことをしようと思うならば、他の手段をとってやるがよい」と、親の威光と子の愛とを以て私を責めきたったのでござります。
けれども私はいかに理想に逸れると申しましても、やはり人間でござります。
わが子のいうことを聞いては、又涙なきを得ませぬ。実に堪らない。しかしながら私は親に向かって断りを言い、又子に向かってこれを慰めたのでござります。
「お母さん、堪(こら)えてください。私はこれを止める訳には行きませぬ。人が呼んで乞食と言おうとも、狂人と言おうとも、そんなことは構いませぬ。否、私は乞食でござります。いかにも乞食をしているのでござります。この後我が村より一人の乞食を出さぬよう、今自ら乞食となっているのでござります。私は乞食に甘んずるのでござります。どうかご覧なすってください。この事が疑いとなって心の中に残っている所の子供が、他日大人となり、彼のときおやじの為した事柄は、果たしてどうであったろうか、この事を繰り返し考えて見たならば、幸いにその疑問が氷解するかも知れぬ。その時にその疑問が氷解しえたならば、それこそ万巻の書物を読んだよりも、なお価値あるであろう。坊もどうか堪えてくれよ」と言って、私は母親に断りを言い、さまざまに子供を諭し、そうして飽くまでこの事を実行致しました。これは私の恥辱を申し上げるのでござりまする。

 ▲奇特なる小作人の申出 それから先ほど申しました3000円余の金でござりますが、これは今積み立て中のものでございまするから、これという小作保護の実行を挙げることは出来ませぬ、又出来ようはずがない。
ただ明治35年から、年々肥料の貸付けということを実行いたしております。
この小作保護を実行致しまする点においては、この肥料貸付けの一事でござります。
これとても皆様に申し上げるほどのことはございませぬが、特に皆様のお耳に入れて置きたいことは、私がこのような困難をいたしてやっておりまする間、すなわち明治36年でござります。
小作人の総代という者が2名、私の所へお願い申したいと言ってまいりました。
私は小作人の総代が、お願いがあって来たという取次ぎを聞きまして、既に心に思うたです。
ああ小作を保護してやろうと言って積立金をしたから、この小作人は早や依頼心を起して、有るものを貸せとでも言うに違いない。既にこういう考えを持つようでは、保護が保護にならない。かえってますます彼らをして依頼心を起さしむることになるのである。彼らを乞食に導くのである。もしそういうことを言って来たならば、頭から一ツ斥けてやらねばならぬと、私は席を構えて待ちました。
然るにその小作人に面会の上、その言うことを聴きまして、私は予想に違うたのでござります。その小作人がどういうことを言ったかと申しますると、
『アナタが御不自由なお身の上で、我々が将来の為に、小作保護米をお集め下さることは、一同感謝に堪えません。しかし我々が将来の利益の為であるならば、地主ばかりから積立て下さるということは、私共としてこれに甘んずることは出来ませぬ。我々は小作人であるからして、地主のごとき金持ちではございませぬ。けれども我々が将来の為だということならば、私共もまた田地一反に対して、麦一升ずつを差し出しとうございます。これは決してアナタの御自由なる御身に少しも労をかけませぬ。我々総代が集めて持って参りますから、これをどうか基金の中に入れてください』という一同よりの願いでござりました。

 ▲小作人の改善 ちょっと最後に申し上げて置きまするが、小作人は誠に正直なものでござりまして、その後、小作米の改善せられたことは、この数年間において実に驚くべきものがござります。
以前に地主は、梅雨の時季以降に小作米を持ち越すことはできなかったが、今日では、梅雨以後に持ち越せない米というものは殆んどないようになって参りました。又掛け目の上から申しましても、一俵が18貫目以上にのぼるような米になりましてござります。
それから又小作人は、この肥料を貸付けました金をば、今日までただの一日も滞納いたした者がござります。それから又小作人は、この肥料を貸付けました金をば、今日までただの一日も滞納した者がござりませぬ。
その期限に至れば、直ちにこれを納め来たりまして、彼の者はどうであろうと怪しんだくらいの者が、かえって一番初めに持って来るというような有様になりました。
すなわち彼らを扱いまする上においても、真の同情をもって扱いまするならば、彼らもまた正直に致しまして、この僅かなる保護も意外の功を奏するに至ることであろうと信じます。
それで小作人が肥料の貸し出しを受けまして、今日では収穫が意外に増加致しました。
あるいは御実見下さったお方があるかも知りませんが、小作人が自分の方へ取っておく米と地主の方に納める米とに区別を付けるというようなことは、少しも無いような有様になりました。
かようにしてこの小作米の改善が出来ましたから、一昨々年から小作米品評会というものを、村事業として行っております。
これも年々150円ばかりの経費を支出致しまして、この小作品評会を開き、そうして小作米に等級を付け、専らその改善を奨励いたしておりまするが、その結果は、ますます好良でござりまして、彼ら小作人は挙って米の改善につとめおるような訳でございます。
 今日私の申し述べましたことは、図らず長くなりまして、貴重なる時間を費やしました段は甚だ相済みませぬことでござりました。なお私が実験中の事柄を申し上げたいことも沢山にござりまするが、何分時間の制限もござりまするし、又皆様の御迷惑でござりましょうから、遺憾ながらこれだけにしてごめんを蒙ります。

 




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