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村治実験談要領その2 森恒太郎

 社会教育中、第二になせるは貯金の実行であります。一体貯金をさせた目的は単に金を多く蓄積せるの故ばかりでなく、その実行の中に貯蓄心を作り、節約の心を作り、勤労の心を作るを以て、その主なる目的としたのであります。実行の中に貯蓄心の養成が出来れば、貯金は面白くなります。そうなれば倹約も勤勉も楽しくなります。人は働いて大いに儲けることをなさねばなりません。村の人が仕事を厭わぬようになれば、農事の改良も出来、生産の増殖をなすことを得るのであります。私しの貯金を奨むるは、実にこの点にあったのであります。村是調査の教うる所では我の村ではどうしても貯金と云うことをせねばならぬという要求があるのです。これは事実の上に現れたることなれば決して間違えてはおらぬのである。村の人が勤労を厭う心は、驕り贅沢をしているのである。人は飲食に耽り、又は華美の衣服を用うると自ら働くことが厭になります。とにかく飲み食いが盛んになれば、仕事をせぬこととなるは勢い已むを得ぬことのようであります。酒は元気づくと云うも決してそうではありません。又良い衣服を着ると勤労に遠ざかるようになります。都会において絹の衣服を着ている人を見ると、よくこの消息がわかります。また農村においてもその通りで善い着物を着て、道を行きまするに、馬糞があったら、必ずよけて通ります。馬糞は有効な農家肥料である。それを避けるはよい衣服を着ている結果であるが、もし作業服でも着て、鍬を持っている時は、馬糞は直に利用せられて、貴き肥料の価値を現わすこととなるのであります。又よい衣服を着てよい足袋をはき、よい下駄を履いて外出した場合に、夏の干天に用水の最も必要な時、隣家の孫兵衛さんの田の畦畔(けいはん)が切れて用水が流れているのを見るも、美衣を纏うがために、そのままに見過ごして、かえって孫兵衛さんの油断をそしって行くばかりでありますが、もしも腕抜き股引きという扮装なれば直ちに鍬を以て、これを止め用水の不足を訴えすむるが如きことなからしむるでしょう。これらの陰徳をなすもなさざるも、ただ美衣を纏うと然らざるとによるのであります。人は余り奢り贅沢をしてはなりません。我が村の人が奢り贅沢をしている事実は村是調査の示す所にして、ちょうど明治32年の調べによると、その当時一戸当たり平均財産が2,970幾円にあたりておりました。故に日本の中でも決して悪い方ではありません。いな寧ろ善い方に属しております。当時全国で村是調査の出来ておったのが8か所ありましたが、その中でよいほうでありました。これはちょっと考えると非常に結構のように見ゆるが決して安心は出来ません。それ故いかんとなれば、およそ財産の中には性質の異なる生産の財産と不生産の財産とがあるのです。すなわち田地田畑貸金公債証書等の如き子を産むものと、家屋衣服道具金屏風掛物等の如き子を産まぬ所の財産とがあります。この生産の財産が多いなら大いに喜ばないのであるが、不生産の財産の多いのは実に憂うべきであります。子を産まぬ財産も必要には相違ありませんが、それには分度があります。不生産の財産は時として鬼となり子を食う事があります。金屏風一枚を持っているには幾らの金が要りますが、実に多額の金を要するのであります。その他膳碗一つが何ほど物を食うか分かりません。その食う処の物は貸金の利子とか、田畑山林より生まれたる子を食うのである。子を食うものは鬼ではありませんか。故に一家というものは、よく分度を定め、調和を図りて置くべきであります。二宮先生の歌に
  飯と汁木綿着物は身を助く
    其の余は我を責むるものなり

ということがあるが、実にその通りで、我々が多くの欲望を持って、これを満足せしむる場合には、必ず多くの鬼に責めらるるのであります。故によく取り調べて分度を正すようにせねばなりません。これが経済上、地獄極楽の別れ道である。
我が村においては、この釣合いは果して都合よくなりおるやというに、生産の財産は100に対し61.8でありました。子を産まぬ不生産の財産が38.2なるが故に子を産む財産と子を産まぬ財産とが6分4分という割合になりております。この4割ある所の子を産まぬ財産は子を産む財産を食うのである。6の4を食う時は正味が2分しかありません。この2分が人が食うこととなるが故に、鬼の食う方が人よりも多いのである。人の痩せておれり。決して不思議ではありません。なお分度を過ぎている証拠は、日本一の土地持ちである秋田県の本間家においてさえ、家憲ありて子を産まぬ財産は子を産む財産の一割より増すことを得ずということになりおるそーであります。このことは新聞雑誌に出たることあれば御承知の人もありましょう。又三菱岩崎とても家憲を作りて子孫の奢侈を誡めおれるとか。日本一の大金持でもこの通りである。我が村が奢り贅沢なるは、これにより明らかな事実であります。このように驕り贅沢をして分限を誤りおるを知らざるが故に身代は破るるのである。昔時は青鬼赤鬼というものありて、大きな鉄の棒を持っていた。誰もこの恐ろしい鬼を家に入るるものはありますまい。それであるから節分になると豆を撒いて「福は内、鬼は外」とて一般に鬼払いするじゃありませんか。されどもこれ昔の事も今は廃って、鬼はおらぬと早合点しているものが多いのです。今でも鬼はおります。世の開化に伴って鬼も進化したから昔時の如き姿では困るから、鬼は角を折り、牙を抜き、鉄棒を捨て、優しき姿となり白粉(おしろい)を塗り、三味線を抱えて沢山出て参ります。その他なかなか色々の化け方をしております。縮緬の帯お召しの着物と化けております。鬼がかく甘く形をかえているとは知らぬから玄関を開いて迎えている人が多いのです。それだから鬼は大手を振りて家の中へ入り、タンス・長持ちは言うも更なり。台所に入り込んで人を働かして子を食うているのであります。毎日我々の働きたる汗は、鬼の食い物となりおるのであります。人間は食うためや、着るために生まれているのでありません。食うとか着るとかは生活の方便であります。それでこそ万物の霊長で人間の価値があるのである。食うことや着ることのために鬼に責めらるるは、人にして人にあらず。なかなか油断してはなりません。もし人間が着るために追い使われているならば、犬や猿に劣っているので、彼らにわらわれます。犬や猿は必ず云うでしょう。我らは生まれながら毛の着物を貰うて洗濯の世話もなく、夏冬着がえの世話もない。人間は可哀想に着物一枚のために難儀をしているとは哀れであると笑います。又もし食うために働くものとせば、みみずに笑わるるに相違ない。彼は言いましょう。我は秋の夜等には涼しき声を張り上げて歌うておりながら、土食って腹鼓を撃っているに、人は一生懸命に食うために働いていると笑うでしょう。そーすれば人は彼らに劣る事となるではあるまいか。故にすべからく財産というものは釣合を考え、子を産まぬ財産は子を産む財産より沢山に持たぬように心掛けねばなりません。我が村の人は4割も子を食う所の財産を持っているのである。而してそれを撫でさすりて、かわいがりておるのである。かくしては家が栄えるものではありません。不生産の財産の多いのは奢り贅沢の事実を現しているので、これがため勤勉を厭い貯金を嫌うようになります。かくいう有様なるが故に我が村にては一面においてこの鬼を退治することが肝要なると同時に、貯金をすることが最も肝要なるを知ったのであります。これ村是調査が告げたる自然の要求であります。
それで私は貯金思想養成のために明治33年においても村内の巡回講話は37回に及びました。なお翌年も半ばその養成に勉めて実行は34年9月より始めました。私は常に貯金というものは、経済上及び道徳上必要なるのみならず、生物としての人間はこれを本能の如く天職とせねばならぬという強い観念を村民に養成したのであります。この貯金本能論は余り学者の唱えていない事で、新しい事でありますから、ご婦人お子ども衆も見える事故、ご参考のため、ここでお話いたして見せましょう。私は実物をもってこれを言わしむるので、この論は私の論でない。天地間における生物の自然性が事実の上に語っている事と思います。私の演説としてお聞きないように願いたいものです。

 科学というものは日々に進歩してやみませんが、すべて実験の批評に過ぎないのであります。故に事実は深き意味を我々の目前に語っているのであります。よって私は事実の上にこの事を語らしめて、村民に強い心を養うて目の前にある天地の真理を教えたのであります。天地は実に大文章であります。谷川の流れも広長舌を振い、山の色も清浄心を現している事を看取せねばなりません。ここに私は実物を買いて見ます。私は目が見えぬからどんな物が出来るか知れません。
もし何かに見えたら手でもたたき、そーして私に報じてください(とて立派なカブを書かれたり)

いかがです。何か出来ましたか(この時拍手大喝采)手が鳴るから何か出来たでしょう。カブに見えますか(拍手)
私はカブを書いた積もりです(とて喜悦満面に溢れ大いに得意なりき)諸君が知らるる如く、カブは生けるものである。カブは声なき説法をなして貯金に関する長広舌を振るうのであります。それからの話は余の話しにあらず。カブの演説であります。カブの言葉は日本語でないから諸君にはわかりにくいでありましょう。私はこれよりカブの演説を日本語に通訳して皆さんに聞かせましょう。
カブにはこのように大きな玉があります。しかしこの玉は始めよりこれは大きなものがあるのではない。最初カブが発芽した時このようなものはない。一二寸伸びた時僅かにノミの食いついた跡ほどのものが出来ます。それがだんだん大きくなって、遂にこのようになったのであります。即ちカブは暗い土中にありて一生懸命に盲目稼ぎをして養い分を得れば、この袋に入れて蓄えます。あたかも私の盲稼ぎと同様に働いています。これが沢山たまればたまるだけ、袋が大きくなるのであります。これ疑いなく皆さんの前に稼ぎ溜めをしているのであります。稼ぎ溜めならば、即ち貯金じゃありませんか。而して貯金の多いのが、大きな大きな金持ちカブであります。この金持ちカブは価値がある人間もこれと同じで働き溜めを沢山する人は、人に尊敬せらるるのである。しかし中には貧乏カブなるのがあります。これは稼ぎ溜のないカブである。皮も堅く繊維が沢山あるから、人に嫌われ、なかなか人も食うてくれず、棄てられて頭から踏まれます。そして泣いています。人間も貯金なき人はこれと同じく踏みつけらるることあれば油断してはなりません。すべてカブに限らず、ダイコンもゴボウもニンジンも皆貯金をしています。すなわちダイコンの貯金袋は長袋でニンジンは赤袋、ゴボウは黒袋であります。この生物が貯金をするのは何のためかというに、一体カブは5,6月頃になれば花咲き実を結びます。一本の茎から幾千万の子を生ずるのである。これすなわち子孫繁昌で生物すべてを通じた目的であります。もしこの時に当りカブの貯金袋を調ぶるならば、今まであった稼ぎ溜の貯金がなくなっています。さて大変カブの貯金はどこへ失せたのでしょう。まさか盗賊に取られたのでもあるまい。警察にもカブの貯金盗賊は上って来ない。然らば幽霊にでもなったでしょうか。カブの幽霊も聞いた事ない。幽霊でなく盗賊でなくば貯金の在家はどこでしょう。この在り処を確かめるには証拠人を連れて来ねばならぬ。その証拠人はカブの種がそれである。これからこの種子を黒板へ書きますから大きな眼をあけて見てください。
(この時黒板に微点を記す)
さあ見えますか。後ろの方からは何―です。見えませぬか。私にはよく見えます。カブの種子が見えぬから、カブの貯金在家が見えぬのです。どうも目があっても見えないとは、眼は用の狭いものですね。今、目明きにも見えましょう。目明きに見せるために、この大きな実に背いた種子を書かねばならぬとは困りました。
(気炎万丈得意当たるべからず)
今この種子を二つに裂いて見ると中に白い粉があります。傍らに小さな青い粒があります。これは植物学上胚乳と胚というものにして種子から芽がでるは胚であります。米においても豆においても皆同じですべて種子は胚と胚乳より成るものである。この白い粉は何かというにこれがすなわち親から貰い受けし貯金である。親は日夜働きて、稼ぎ溜めをなし、それを子どもに譲るのであります。これを孫に譲るのであります。たしかに目の前にこの事実を繰り返しているのであります。親が働いて子に渡す。それは何のためであろうか。親が子に貯金を渡すに道楽せよと云うのではありません。
カブが畑に蒔かれて発芽した当時は赤子であるから、独りで働いて食することが出来ません故に、その時のためにとて、親は貯金を渡すのであります。カブは芽が出て、数日を経ば根を生じ、この根が働き溜めをするまでの間は、養いを外から取ることが出来ぬから、そのために貯金を渡して置くのであります。故にこの貯金なければカブは芽を出しても飢え死の運命に遭ううのです。故に親の貯金なくば子は死にます。生物の目的が子孫繁栄にあるならば子孫の独立を助ける貯金なくてはなりますまい。故に神は生物を造ると同時に貯金の勤めを命じられたものです。それであるからこれに反するときは神様の罰に当たります。このカブについて見るもこの如き真理があります。
人間も子孫の繁昌が第一でありますから、我々は貯金をするの必要があるのです。カブは補育時代が短く僅か7日くらいにして自営するものとなりますが、人はなかなかそうは参りません。16,7才まではあたかも自営は出来ぬ、十分に教育をするとなると25,6才に達せねばならぬのであります。故にそれだけ多く貯金をなし、この補育時代、親の責任を十分にして始めて立派な子孫が出来るのです。我が村の人はとにかく貯金の勤めをいたしませんから、実に困るのです。肝要の貯金をせず、直に智恵貯金で間に合わそうと致します。すなわち病気でもなりて困る時は、直に智恵貯金を引き出して、ウソ八百で借りて参りまするが、返す時になると、明後日になれば返します。来たる何月には必ず持って参りますと、またも智恵貯金で返済します。智恵貯金の返済は何度でも催促を受けます。ウソも終いには通用せぬ故、身が亡びます。信実の貯金なら一度払って二度と催促は受けません。有難いものです。しかしこの有難い貯金をせずに、カブの貯金をば切って食うという事は、これ切り取り強盗である。厳刑に処せられるであろうというても村の人は笑うて冗談のように思うています。カブの貯金を切り取りしたというて警察から引き立てに来るでもあるまい。私は常に村の人に申します。おまえらは日本の刑法繰り返してもその刑罰は書いてないと申しますが、なるほど日本の刑法にはカブの切り取り強盗という罰はないかもしれぬ。いなないだろう。しかし天の刑法にはたしかにこの恐ろしき罰が書いてある。天の刑法が見えぬとは眼があって有り甲斐のない明き盲目というものであろう。天の刑法第263条を見よ。この恐ろしき罰が書いてあるのである(笑い声起こる)
天の刑法を犯すと実に恐ろしいのである。日本の刑法には刑事訴訟法というものがあってやる、予審の終決であるとか、公判の開始だとか、裁判の言い渡しだと、もし判決に不服あるからなかなか油断はなりらせん。ついでだからその恐ろしい刑罰をも申して置きましょう。この罪には二つの罰があります。一つは貧乏という棒で打たるるのであります。なかなか痛いのです。私しも一度この棒で打たれたことがあります。第二にはなお恐ろしい罰です。すなわち子孫断絶の刑に処せられるおですから、流罪どころの騒ぎではありません。諸君はこの恐ろしい刑罰に触れぬようにせねばなりません。これはこれ滑稽の話にも似たれども、たしかにこの中に真理があると信ずるのであります。私はこう云うように、目に前の事をかりては、ごく分かりやすいように話をいたしました。而して34年9月より貯金の実行をしたのであります。これからちょっと一休みして次のお話に移ります。
(大喝采)

休憩


 社会教育中、第二になせるは貯金の実行であります。一体貯金をさせた目的は単に金を多く蓄積せるの故ばかりでなく、その実行の中に貯蓄心を作り、節約の心を作り、勤労の心を作るを以て、その主なる目的としたのであります。実行の中に貯蓄心の養成が出来れば、貯金は面白くなります。そうなれば倹約も勤勉も楽しくなります。人は働いて大いに儲けることをなさねばなりません。村の人が仕事を厭わぬようになれば、農事の改良も出来、生産の増殖をなすことを得るのであります。私しの貯金を奨むるは、実にこの点にあったのであります。村是調査の教うる所では我の村ではどうしても貯金と云うことをせねばならぬという要求があるのです。これは事実の上に現れたることなれば決して間違えてはおらぬのである。村の人が勤労を厭う心は、驕り贅沢をしているのである。人は飲食に耽り、又は華美の衣服を用うると自ら働くことが厭になります。とにかく飲み食いが盛んになれば、仕事をせぬこととなるは勢い已むを得ぬことのようであります。酒は元気づくと云うも決してそうではありません。又良い衣服を着ると勤労に遠ざかるようになります。都会において絹の衣服を着ている人を見ると、よくこの消息がわかります。また農村においてもその通りで善い着物を着て、道を行きまするに、馬糞があったら、必ずよけて通ります。馬糞は有効な農家肥料である。それを避けるはよい衣服を着ている結果であるが、もし作業服でも着て、鍬を持っている時は、馬糞は直に利用せられて、貴き肥料の価値を現わすこととなるのであります。又よい衣服を着てよい足袋をはき、よい下駄を履いて外出した場合に、夏の干天に用水の最も必要な時、隣家の孫兵衛さんの田の畦畔(けいはん)が切れて用水が流れているのを見るも、美衣を纏うがために、そのままに見過ごして、かえって孫兵衛さんの油断をそしって行くばかりでありますが、もしも腕抜き股引きという扮装なれば直ちに鍬を以て、これを止め用水の不足を訴えすむるが如きことなからしむるでしょう。これらの陰徳をなすもなさざるも、ただ美衣を纏うと然らざるとによるのであります。人は余り奢り贅沢をしてはなりません。我が村の人が奢り贅沢をしている事実は村是調査の示す所にして、ちょうど明治32年の調べによると、その当時一戸当たり平均財産が2,970幾円にあたりておりました。故に日本の中でも決して悪い方ではありません。いな寧ろ善い方に属しております。当時全国で村是調査の出来ておったのが8か所ありましたが、その中でよいほうでありました。これはちょっと考えると非常に結構のように見ゆるが決して安心は出来ません。それ故いかんとなれば、およそ財産の中には性質の異なる生産の財産と不生産の財産とがあるのです。すなわち田地田畑貸金公債証書等の如き子を産むものと、家屋衣服道具金屏風掛物等の如き子を産まぬ所の財産とがあります。この生産の財産が多いなら大いに喜ばないのであるが、不生産の財産の多いのは実に憂うべきであります。子を産まぬ財産も必要には相違ありませんが、それには分度があります。不生産の財産は時として鬼となり子を食う事があります。金屏風一枚を持っているには幾らの金が要りますが、実に多額の金を要するのであります。その他膳碗一つが何ほど物を食うか分かりません。その食う処の物は貸金の利子とか、田畑山林より生まれたる子を食うのである。子を食うものは鬼ではありませんか。故に一家というものは、よく分度を定め、調和を図りて置くべきであります。二宮先生の歌に
  飯と汁木綿着物は身を助く
    其の余は我を責むるものなり

ということがあるが、実にその通りで、我々が多くの欲望を持って、これを満足せしむる場合には、必ず多くの鬼に責めらるるのであります。故によく取り調べて分度を正すようにせねばなりません。これが経済上、地獄極楽の別れ道である。
我が村においては、この釣合いは果して都合よくなりおるやというに、生産の財産は100に対し61.8でありました。子を産まぬ不生産の財産が38.2なるが故に子を産む財産と子を産まぬ財産とが6分4分という割合になりております。この4割ある所の子を産まぬ財産は子を産む財産を食うのである。6の4を食う時は正味が2分しかありません。この2分が人が食うこととなるが故に、鬼の食う方が人よりも多いのである。人の痩せておれり。決して不思議ではありません。なお分度を過ぎている証拠は、日本一の土地持ちである秋田県の本間家においてさえ、家憲ありて子を産まぬ財産は子を産む財産の一割より増すことを得ずということになりおるそーであります。このことは新聞雑誌に出たることあれば御承知の人もありましょう。又三菱岩崎とても家憲を作りて子孫の奢侈を誡めおれるとか。日本一の大金持でもこの通りである。我が村が奢り贅沢なるは、これにより明らかな事実であります。このように驕り贅沢をして分限を誤りおるを知らざるが故に身代は破るるのである。昔時は青鬼赤鬼というものありて、大きな鉄の棒を持っていた。誰もこの恐ろしい鬼を家に入るるものはありますまい。それであるから節分になると豆を撒いて「福は内、鬼は外」とて一般に鬼払いするじゃありませんか。されどもこれ昔の事も今は廃って、鬼はおらぬと早合点しているものが多いのです。今でも鬼はおります。世の開化に伴って鬼も進化したから昔時の如き姿では困るから、鬼は角を折り、牙を抜き、鉄棒を捨て、優しき姿となり白粉(おしろい)を塗り、三味線を抱えて沢山出て参ります。その他なかなか色々の化け方をしております。縮緬の帯お召しの着物と化けております。鬼がかく甘く形をかえているとは知らぬから玄関を開いて迎えている人が多いのです。それだから鬼は大手を振りて家の中へ入り、タンス・長持ちは言うも更なり。台所に入り込んで人を働かして子を食うているのであります。毎日我々の働きたる汗は、鬼の食い物となりおるのであります。人間は食うためや、着るために生まれているのでありません。食うとか着るとかは生活の方便であります。それでこそ万物の霊長で人間の価値があるのである。食うことや着ることのために鬼に責めらるるは、人にして人にあらず。なかなか油断してはなりません。もし人間が着るために追い使われているならば、犬や猿に劣っているので、彼らにわらわれます。犬や猿は必ず云うでしょう。我らは生まれながら毛の着物を貰うて洗濯の世話もなく、夏冬着がえの世話もない。人間は可哀想に着物一枚のために難儀をしているとは哀れであると笑います。又もし食うために働くものとせば、みみずに笑わるるに相違ない。彼は言いましょう。我は秋の夜等には涼しき声を張り上げて歌うておりながら、土食って腹鼓を撃っているに、人は一生懸命に食うために働いていると笑うでしょう。そーすれば人は彼らに劣る事となるではあるまいか。故にすべからく財産というものは釣合を考え、子を産まぬ財産は子を産む財産より沢山に持たぬように心掛けねばなりません。我が村の人は4割も子を食う所の財産を持っているのである。而してそれを撫でさすりて、かわいがりておるのである。かくしては家が栄えるものではありません。不生産の財産の多いのは奢り贅沢の事実を現しているので、これがため勤勉を厭い貯金を嫌うようになります。かくいう有様なるが故に我が村にては一面においてこの鬼を退治することが肝要なると同時に、貯金をすることが最も肝要なるを知ったのであります。これ村是調査が告げたる自然の要求であります。
それで私は貯金思想養成のために明治33年においても村内の巡回講話は37回に及びました。なお翌年も半ばその養成に勉めて実行は34年9月より始めました。私は常に貯金というものは、経済上及び道徳上必要なるのみならず、生物としての人間はこれを本能の如く天職とせねばならぬという強い観念を村民に養成したのであります。この貯金本能論は余り学者の唱えていない事で、新しい事でありますから、ご婦人お子ども衆も見える事故、ご参考のため、ここでお話いたして見せましょう。私は実物をもってこれを言わしむるので、この論は私の論でない。天地間における生物の自然性が事実の上に語っている事と思います。私の演説としてお聞きないように願いたいものです。


 先刻お話しせしごとく第一に貯蓄心の養成に勉め、村中を巡りて貯金の実行を奨めたるに、この時通帳を渡せるもの600有余名に達しました。かく多数の貯金者を得たれば、これよりはこれらの人に便宜を与えて、たやすくその金を集むるようにせねばなりません。故に高等小学校の生徒に依頼して、日曜ごとに貯金を集めて貰うこととしました。これを日曜貯金と称えております。この袋は高等小学校の女生徒に材料を与えて拵えさしたものにして、これを生徒は持って金を集めます。
(この時袋の中の手帳通帳等実物を出して説明を与う)
 月曜の朝これを受持の教員に渡すのであります。役場からは収入役を出張せしめて、この貯金を全部とりまとめ、持ちて帰ります。貯金は銀行に預け入れをなし、通帳に金額を記入せしめ、火曜日又は水曜日にはこれを学校に返すから、生徒は直にこれを各自受持の人々に返付するのであります。奨励のためとて銀行は特に日歩1銭7厘を払い下げられます。私の方でこの貯金集めをするのに、生徒に託した事についてはいろいろの理由があります。第一に児童に勤労には必ず報酬あると同時にその大切なるを知らしめ、第二に貯金というものは面白いものである。人というものは、どうしてもこれをせねばならぬものであるということを知らしめ、第三に村の仕事を手伝わして、自治の観念を養え置きたき等のためでありました。これがためには集金のお礼として百分の一だけの金を郵便切手で渡しております。児童はこれを受け取ると貯金台紙に貼り付け、その貯金の出来るのを非常に楽しんでおります。このように学校生徒にも、貯金をさしておりますが、生徒の勤労から得たものではなくては貯金させぬようにしてあります。それゆえ農村会からは年々害虫駆除並びに麦の黒穂抜きのために30円内外の賞与金を出しております。これが児童勤労の貯金となります。又児童一人につき鶏3羽宛家庭において飼育せしめ、その卵はこれを学校に持ち寄り共同販売に付してそれを貯金しております。我が村では児童のすべて勤労によるもののみにて貯金せしめおるのであります。とにかく児童貯金というと勤労以外の貰い貯金ということが多く行われます。貰い貯金は児童をして貯金の真価と勤労の習慣を養う事が出来ぬから堅く禁じてあるのです。金の価値は勤労によって生ずるのです。故に勤労なき金は消費しやすいのであります。労せずして金を使うことをさせると親の溜めた金を使うことを何とも思わぬようになります。世上多くの青年が親の財産をやすっぽく使うものあるは、蓋し金の価値を知らぬからで用心をせねばなりません。これは支路入った児童貯金のお話しでありますが、さて日曜日に児童が集めてくれる一般の日曜貯金はいかになっているかというに、零細の金も積もって一昨年の末に3万7百幾円という額に達しております。それがあの可愛い児童が集めたのであるから、この金は決して僅かな額とはいえませんが、なおこの3万幾円という金以上の利益を期せんと希望して実行を致したのであります。さらば実行の結果、果たしてこの貯金以上いかなる利益があったかというに、第一金を集めてくれる児童の教育上少なからぬ利益を認め得ぬ事であります。すなわち子どもは村の金を集めて、その結果が村の公共事業に従いたることとなり、ひいては児童勤労の効果にも表わしおるが故に、教室で先生が百遍の講義よりも一遍の実行が大いに効あっただろうと思います。児童はこの袋を以て貯金を集めている間多くの事実によって、貯金の必要を感じた事と思います。我が村に現れた事実の一を申して見ますれば、私しの村に独身の婆さんがありました。この婆さんは常に嘆いておりました。私には子もなく孫もなき。彼は老後を養うてくれるものもない。死んでも後を祭ってくれるものもないと云うて嘆いていたのです。遂に4,5年前に死亡致しました。けれども葬式は立派にでき、なお後を継ぐ養子もできたのです。これ全く彼は常に日曜貯金を怠りなく積んでおりたがためでありました。かかる事実を生ぜし場合は、常に学校では生徒を集めて、この生きた教材によりて子ども達を諭すのであります。故に子どもの頭にこれが深く印象せられて必ず貯金の必要を知らせ得た事と思います。殊にこの事実は児童の関係しておる事であるから一層その感を深くするであろうと思います。また人は僅かなる金を大切にする事を知らねばなりません。もしさようでなくば何百万円の富もこれを保つ事を得ないのであります。とにかく人は僅かなる金を粗末にするの傾きがあります。この如き人が貧乏するのであります。
私しの知人に僅かなる金の貴きを知らざる人がありました。用事があって、山口県下ノ関まで行く積もりで家を出て、海を亘り途中広島で4,5日滞在して遊んでいましたが、懐中が乏しくなったので、驚いたように下ノ関の用を思い出し、目的地に行こうと停留所に駆け付けました。切符を求めんとせんに、80幾銭のところ僅か7銭ばかり不足しているので、いくら財布をたたいても出て来ませんから、切符を買うことが出来ず、かれこれする中に汽車一声高く汽笛を鳴らして出ていきました。次の汽車になりても乗る事が出来ず、遂に向こうまで歩行して行ったという事であるが、これはすなわち僅か7銭の金が80銭を殺し、とうとう汽車に乗る事が出来なくなったので、即ち小なる金の貴きを示している実話でなかろうか、あたかも小相撲が大相撲をなげたのである。僅かなる金の大切なること、この如しである。故に私しは村の村の子どもにこの事を話して僅かなる金の大事なることを知らしむる事に勉めました。而して常に学校に行きて子どもを集めて貯金のことにつき、礼を云うのです。皆さんが僅か5銭6銭と集められた金は積もり積もって、既に3万円に達しております。これ全く皆さんのお蔭である。小を積んで大をなす。零細の金も集めれば、かく大金となるというと子どもの喜びというと子どもの喜びというたらありません。手の打ち足をたたき舌を鳴らし目を開きて、ホホホホ アレレレ3万円というとそれはそれは大喜びであります。全く手の舞い足の踏む所を知らずという有様で、この時はたしかに僅かな金の貴きを知られ得たと思います。かく児童に貯金の必要及び僅かなる金の貴きを知らし得たとすれば、将来我が村を経営する所の子どもの頭に立派な種を蒔いたのであるから、未来永久の貯金であります。

 現児童以外一般の人に蓄積心の出来たことは実に大なるものであります。なお1週間に1度宛可愛い子どもが貯金貯金と追いかけているから、村の人は蓄積の念を絶つ事が出来ません。自ずから貯蓄が面白くなった故に一昨年末日曜貯金以外に村の人が銀行預金又は公債証書等の貯蓄は10万円に達しております。これは全く3万円の日曜貯金実行の結果より貯蓄心の出来た証拠であります。さあこういうような具合であるから、以前の如く村の人は驕り贅沢をせぬようになりました。これが何よりの大なる利益であります。一体貯金というものは、ただ積むのみにては何の用にもなしません。これを利用せず、ただ積むものは、経済上の泥棒ともいうべきである。貯金を奨励すると、世の中が淋しくなるというは、全くこれがためです。フランスは貯金の最も多い国である。然るにこの国は微々として振るわぬのである。これは全く貯金を他の国に貸し付けて自国に利用せざるがためであります。貯金は利用するがための貯金である。生産を興すべき貯金である。私しの村の人は貯金の出来るに従うてよく利用をしてくれました。すなわち肥料の購入の如き、牛馬の買入れの如き、農具の購入の如きは、全くこれはために非常によく都合よく運ばれたのであります。これがため恐ろしいものでありませんか。米の収量が明治の初年には一反歩平均一石二斗内外なりしものが明治32年には二石二斗となり、この頃では一躍して三石二斗を得るようになりました。これは全く村の人が資本の運用を上手にしてくれた賜であります。貯金の利用は実に大なるものではありませんか。
 又農村というものは、農業の進歩したるのみではありません。これに副業というものがなくてはなりません。農業には雨天がありたり。冬季等の仕事の出来ぬ日が沢山ありますから、どうしても副業でこの日を休まぬようにせねばなりません。そこで女子には盛んに副業の奨励をいたしました。伊予がすりはこれである。この織物はこれまた貯金の利用によりて盛んになったのであります。ただ今では500戸ばかりの村で1年の産額13万円に達しております。而してこれには資本約4万5千円を要しているのみであるから、僅かの貯金が出来れば運用によって幾倍の生産となるのであります。この生産のため、毎年6万円の純益があるので、地方の発展は全く産業の興るにあります。かく米作の進んだのも副業の興りしも貯金の御陰であります。その利用によりて生産の途は開かれたのであります。また貯金の賜物は以外の大なる実力を現すのであります。これがために我が村の土地の価格が高くなりました。明治32年には一反歩僅か170円なりしものが近年は平均400円台に上りております。1町歩とまとまりたる土地はなかなか400円を出しても、4,5年待っても到底買うことが出来ません。田を売る人なくして、買い手多きためであります。故に村内の土地の価格は90万円の富を増してなかなか少ないものではありません。貯金の利益は現在将来の一大実力を増した事をこれらの事実によって深く信ずるのであります。カブについて申した如く、貯金は生物の本能として行うべきもので天理であります。天理に従えば栄え、しからざれば亡ぶ故にこのように一大実力を現すことと思います。
 さて地方の繁栄は生産によらねばなりません。生産は貯金をまって興すものであります。生産なくば永久の繁栄は期せられません。ここに10万円の生産が興りたりとすれば、ただに10万円という経済上の融通ではありません。その原料をこしらえ、又は生産物を得る商人の手に倍額以上商売がありますのみか、これら生産の運搬に従事する労力者等の利益を測り知る事が出来ません。故に経済上からは10万円の生産が出来ると30万円以上の融通となって繁栄を来すのであります。かく大なる利益を収むるには貯金の実行にあるのです。貯金に付いて最も注意すべき一つの要件は多数の人の実行にある事であります。即ち小数の人の多き金額よりも中産以下多人数の貯金が貴いのです。2,3人の人が幾ら金を多く溜めたとても、土地の価格は騰貴するものではありません。世の中に金持ほど欲のないものはないかと思います。貧乏人の田地を僅か一反か二反20円か30円安く買うたからというて金持は喜びませぬ。これがため自分は非常に大なる損をしているのに気がつかぬのであります。たとえ20円安く買うても一反に付き20円価格が下落すれば金持は自己10町の所有地において2千円の損をするという事に気がつかぬから、他の者が貧乏で2,3の金持ちがある時は貧乏人の弱点を窺うてやすく買い、地方の富は増加しません。これに反して多人数に貯蓄さすれば利用はますます大となり土地を買うもの多くして自然価が増してきますから金持ちも自ら大なる利益を得ることで彼我が共同の利益はこの点にあることを考え、実力の発展を勉めねばなりません。これ貯金実行に対して最も注意すべき要件であります。ちょっと休憩致します。

  休  憩



 これより講田法のことを述べましょう。
 何だか妙な名であります。私しの方にはいろいろ宗教上の団体があります。これを講と云っております。日蓮宗には題同講、真言宗には大師講その他念仏講とかいうものがありまして、10軒ないし15軒くらい宛集まりて講を作りおるのです。毎月一回宛集まって夕食でもして別るる常であります。この事は宗教上の信仰によるも隣保相助くるの良俗をなしているのですが、近頃では善い事がなくなりて悪い事が増えて来て飲食会のみとなってきました。昔はなかなか魚類らは食わずにおりしものが、ただ今では肉類まで用うるようになりましたから費用も多く要することとなり、一面この費用は貧富平等割にするのですから、貧乏人はよほど苦しいのであります。しかしこの講は決して悪いものではありません。これを善く利用するならば村を改良する一助ならんと思うて、講田法なるものを作りたのであります。即ち講田法とは宗教上団結を利用し、村の人に共同耕作をなさしめ、農家の利益あること及び農業経済の要義を一般の人に飲み込ましむる目的を以てしたものであります。
 私しの村の人はよく申します。百姓は実に儲けがないと。然しながら私たちが村是調査をなせる処によるとなかなか利益のないところではありません。故にこの利益ある事を実際に知らしめんとしたのであります。講田法を始めた理由はそこにあるのです。そこで私はまずよさそーな講5つを集めて話を致しました。お前達は常にかく多く寄り集まってご馳走を食っているから、かくてはなかなか多分の費用を要し金が続くまい。私しはこれからお前達に金を出さずにご馳走を食える方法をしては如何と言いました。そんなよい方法があれば致しましょうと、ここに講田法を実行することと致しました。依って良田2反歩を一講に宛てる事として、土地を地主より借りて渡しました。共同はとにかく労力が無益になりやすいから、一講ごとに幹事1名を置いて、それが労力の分配、すなわち仕事割を致します。即ち種蒔きから整地施肥除草収納調整等一々これを各人に割り当てをなし、而して幹事は日誌を作り、かつその仕事を数字によって買いておくのです。例えば完全な男が一日働きたるものを十、と記するなれば、半日なれば五、3時間働きしなれば三、と記入するが如きであります。かくすれば労力の計算が出来るのです。この借り入れた土地一反歩につき平均1石8斗の小作料を払うのでした。かく高い小作料を払うては利益がないと苦情を云うものもありましたが、農業の利益を自覚させるには、かえって小作料の高いのが便利だと信じましたから、かくして米麦の共同作を実行させたのです。これを明治34年より実施致しました。第1回の米作修了後、収穫物より小作料を収め、残米を販売し、これより肥料器具の損料等を引き去り、労働日数に割り当てて見ましたら、一日の賃銭64銭余に当りました。今から10年前にありて農業一日の労賃64銭の利益ありとすれば、代用のあることを説明しました。かく一日64銭の利益なきにあらずであります。私はこの計算に立ち会って現在の事実を示して、その利益のあることを説明しました。かく一日64銭の利益ありとすれば、代用教員の日給30銭よりもよいではないか。百姓をするに袴をはいて行く面倒もなし。長官のお髪(ぐし)を払うといううるさいこともないと申しますと、一同は大いに感じました。彼らは言いました。1石8斗の小作料を払うてこんな利益がある。なお共同作であったから実際を言えば、自分の田を作るように働かなかったのである。されば自分の田を作れば、これ以上の利益あることだという事をよく自覚してくれました。それより大いに一同農事に力を入れることとなり、冬の時期でも労力を厭わず排水をする、それが無代価の肥料であるという事をよく自覚しました。故に年々収穫が増加するに至り、今ではこの講田が8か所もありて、一人一日の利益は1円20銭以上に達しています。又講田法によりて得たる利益はこれのみに止まらず、田地一反にいくらの人夫を要するやをも確実に知得せしむに至りました。この講田法の数字によって見ますれば、米作を為すに一反歩につき、18人ないし22人にて出来ているのであります。なかなか聞いて見ると、この辺より周約なるようであります。それでもそのくらいでなすことを得ることとなりております。苗代等でもなかなか手数を多く要すのです。整地にしても草の種の這いらぬおゆに注意を払っています。砂等を入れて客土を作ります。草等生いること有りません。籾等は大抵一坪に2合か3合であります。苗代は朝夕巡回して用水には十分の注意を払っております。そして害虫駆除も毎日なすのであります。本田は鋤き返して緑肥を入れ、これに正条植をなすのである。而して植付後10日間は浮き苗の挿し込み又は螟虫(ずいむし)の採卵をなすのである。皆腰にはガラス瓶を下げております。採卵したのを手で持っている時はふ化するからであります。その後、縦横に厂爪打をなし、次に一番二番草取りをして、追肥を与え、田打車にて縦横二回かき回すのであります。それから三番四番草に取り、而してこの辺のようにお尻で草は取らぬのであります。背中には大きな笠を負い、膝をつけて十分に表土を上に下に引き繰り返すが故に、襦袢の裾は黄色となり、まるでボロボロとなりおるのであります。除草の目的は水を少なくして太陽の温熱を地中に導くのであるから、草除きは第二の目的に過ぎぬのであります。

故に男の手で十分にかき回し、尻立の草除きはせぬのであります。害虫駆除にしても白穂抜きは3回行います。浮塵子も2回は駆除するのである。彼れは米質を害するのみならず、収量を減ずるを以て多きは5回に及ぶことがあります。刈り取りは稲の茎の中にある養分が悉く穂に移ったのを見はからい刈取りをなし、これを一日田面に拡げ、直ちに扱(こ)き落しをなし。家に持ち帰りて庭前に藁を布き、その上にムシロを拡げ、一枚に約7升くらいの籾を入れ、一日2回の干し返しをなし、多きは4,500枚を世話する故、なかなか忙しいのです。これを唐箕にかけ籾摺りをなし玄米となして、俵に入るるのであります。このように随分手入れもするし、骨折をするのですが、一反歩につき18人ないし22人にて出来るのであるという事を一般のものが数字的に承知したのであります。これがために村是として実行せんとせし副業の必要を一般に認めました。農業は利益あるに相違ないけれども、かくの如く一反歩に対する労力が明らかになってくると、初めて労力を徒費している日の多いということを知った。これがために農村の経済がとにかく困難でために誤って農業の利益なきかの如く思うのである。労力配分が農村経済の一大問題である。副業を盛んにせねばならぬという事を知って以来、先に述べた如く貯金を行い、これを利用して副業の生産額が増加したのであります。経済思想から起こった農業若しくは副業は秩序があって著しい発達を見るものであります。副業が盛んとなれば経済上の利益はなかなか少なくありません。これがため農業もまた栄えて来るものであります。我が村にては雇い人を入るることはなかなか困難なりしものが織物をするようになりたるが故に多くのものが雇い人を入るることとなりたれば、閑の時にはこれを農業に使うことを得て、労力を得ること容易となり、従うて資本も廻り、農業がますます盛んとなりました。その外又副業のために婦人の品性を高め、男女の職分を明らかにするを得たのであります。女には女に適する務めがあります。女は家庭的のものであります。女が家におらぬと自然に家庭が乱れてまいります。女が農業に働きすぐると農業は進歩せぬのであります。女はやはり虫取りとか田植えとかの仕事の外はこれを男子に譲るべきである。田草等は力を要すること大なれば女のすべきものではなかろーかと私は考えます。ことに近頃は農業の技術も大いに進歩して参りましたから、女が農事に余り手を出しすぎるは決して農業の進歩発達する所以でなかろーかと思われます。女は家の仕事が沢山ありますから、外に出て働くにして比較的仕事の出来るものでありません。しかし副業がないと自ら外に出勝ちになるのであります。米を多く獲らんとする。男が力を要する仕事を引受けて草もとらねばなりません。女に余分に働かせおる所は男がとにかく怠けているものです。女に働かしておいて昼寝をしたり、また僅か草の一荷二荷を刈って来て一日を過ごす男もあるのです。女が多く外に出るようになれば家にいることを厭うようになり、家の掃除等もせぬようになるのであります。男が車を引き女が後より、これを推して夫婦その稼ぎをしているものを見ると、ちょっと非常に具合が善さそうに見えるが、その実、決してそうではありません。この如き人は出世するものでありません。台所や竈の下にも田地田畑はあります。この田畑は旱損水害等の憂いがなく、必ず定まった収穫があるので一番安全であります。冬でも米を作ることが出来るのであります。男が外に出て、米を作り、女は家に在りて台所の田畑を作らねばなりません。かくして内外の収穫を得て繁昌するのであります。また女が家にあって家庭を整えるという事は非常に利益のあるもので、衣類の始末や裁縫等に心付けるようになって、良い風が出来ますが、田畑ばかりに出る習慣がつくと、裁縫も嫌になり、着物も仕末せぬ為に不経済甚だしいもので、すべて家庭が整えば、夫もよく働き、家に帰るを愉快として道楽などは、せぬようになります。その上子供の教育に関係をもっています。子供を家に置いて出て行きますと、自然悪風を生じます。故に女は家庭にあるを主とせねばならぬ。それには家庭副業がなくてはなりません。副業の利益はかかる関係を以ておりまして、女は女の天性を果たしむるようにせねば繁昌覚束ないのです。かく言うたればとて女を全く農業に従事させぬというのではありません。その辺は誤解のないように願います。我が村は幸いにして副業盛んとなりしより、女の天職を完(まっと)うする事を得たのであります。男が外に出て田畑を耕し、女が家にありて内助の効を全うしました時に田地の手伝いをするのが最も善いのであります。これは皆副業から得た利益と思います。講田法により農業の利益を知ると同時に、副業というものが農業をなすに欠くべからざるものなるを悟りました。
 



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