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竹林の一愚人の独り言

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2007.03.04
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7-4遊牧回帰―雲散霧消する帝国の末裔―

【エセンが殺されると、エセン帝国は建設も早かったが、瓦解も早く、あとを収拾し継承する指導者もあらわれず、モンゴリアはあたかも潮が退いたようになり、部隊は分散しもとの遊牧生活へとあと戻りした。】―第7巻367頁―
【概していえば、これまでの南北朝時代以来の異民族王朝は、高度な漢文化に眩惑されて、自民族の長所までも見失い、漢文化の同化力に敗れ去る傾向が強かった。/モンゴル族は、この点ではモンゴル至上主義を守って、漢文化に同化されないように特に注意をはらい、その効果をあげることができたといえよう。】―同上257頁―

国家はなぜ滅亡するのか
 明王朝が成立したのちも、元王朝は滅亡することなく存続し続けた。彼らにしてみれば、故郷のモンゴルに戻っただけ、という意識であったのかもしれない。この、中原を追われれたのちの元朝を、歴史上「北元」という。北元それ自体は単なる“おまけ”に過ぎないが、モンゴル帝国の“残影”はなおしばらく続く。世界を支配したモンゴルの民である、「我こそは第2のチンギス・ハンたらん」と志す者がいて当然である。具体的には、チンギス・ハンの嫡流たる北元が滅亡したのち、モンゴルではオイラート部とタタール部が天下を争う。「日本」という天下をめぐっての源氏と平氏の争いとでも思えばよい。チンギス・ハンの再来を思わせたのはオイラート部のエセン・ハンであった。1449年、彼は明朝6代正統帝(英宗)を捕虜にするという事件(土木の変)を起こし、遊牧民の脅威を漢人に再認識させた。彼の死後、覇権はタタール部に移り、アルタン=ハンなどがなおも華北に侵入したが、モンゴル帝国の再建を思わせる人物の登場は、彼を最後にしてなかった。
 さて、これら一連のモンゴル帝国の興亡から、われわれは一体いかなる教訓を得られるだろうか? それは、「国家は滅亡する」ということである。より正確にいえば、「国家を“存続させる労力が惜しまれるならば”、国家は久しからずして滅ぶ」ということである。チンギス・ハンによって創始された「モンゴル帝国」という国家は、その帝国の末裔たちが帝国を存続させる労力を惜しんだために、滅亡してしまったのだ。そして、彼らは草原へ帰っていった。「諸行無常」といって、こうした歴史的事実を安閑と眺めることは、私にもとてもできない。
 国家がなぜ滅亡するのか、ということにここで深入りするつもりはない。その内的要因、すなわち「文明が人間を惰弱にする」ということ前回すでに述べたし、その外的要因、すなわち軍事的侵略についてはわざわざ述べる必要もなかろうと思ったからだ。今ここで関心を払うべきことは、むしろそうした問いの前提である。「国家がなぜ滅亡するのか」という問いを発する以上、すでにして国家は存続すべきであり、滅亡すべきではないという思いがそれに先行する。私はこのことに依存はないが、ここで根本的な問いが生じてくる。では、「なぜ国家は存続するに値するのか?」ということである。この問いに答えるためには、われわれは「国家」というものを厳密に定義しなくてはならないだろう。もしその言葉が単に国家機構の「政府」を意味しているとしたら、すなわち単に国民の生命と財産を守ることのみをその任務とする「ステート」の意味であるならば、その存続の価値は薄れてしまわないだろうか。なぜならその場合、その地域住民の生命と財産を保証する外敵が「政府」として臨むなら、国家を守る意味などないからだ。そうではなくて、個人に先行する歴史的に形成された「ネーション」の存在が厳然としてあり、そうした文化なり伝統を保守し、更なる発展を願えばこそ、「国家」の存続価値は高まるのではなかろうか。
民族もまた滅亡することがある
 私が言いたいのは次のことである。人間は歴史的な存在である。歴史的な存在であればこそ、われわれは生まれた時から様々なしがらみに苛まれる。典型的なものが「言語」ではないか。われわれがいかにその言語を拒もうとも、その言語の文法構造を変えることはできない。どうように、正確な理由もわからないままに、あたかもクローンを培養されるかのごとく同一の「文化」を植えつけられる。そうした、言語にしろ文化にしろその他様々な慣習にしろ、決して人間が恣意的に“つくった”ものではない。それらは皆、長い歴史を経て、無数の先人たちの営みが積み重なって“形成された”ものである。こうして世界のある地域に形成された「社会」は、当然他の「社会」と差異性をもっている。このことをわれわれはどう理解したらよいのだろうか? 近代合理主義の立場からすれば、こうした人類社会の統一を阻む「偏見」は、憎むべきものである。かと思えば、「文化」の差異を極端に強調してその頑なな守旧を目論む者や、逆に個人の志向に完全に委ねる価値相対主義者が現れる始末である。
 まず第1に認識すべきことは、人間は生まれつき「知的」であるわけでも、生まれつき「理性的」であるわけでもない、ということである。彼が生まれた時にはすでに存在し、そしてその恩恵を受けることで“辛うじて”、「知的」に「理性的」にそして「文明的」に振舞うことができるようになる「文化」や「伝統」と呼ばれるものに浴しているからに過ぎない。第2に認識すべきことは、こうした文化・伝統は「人為的」に作られたものではないということである。それは「歴史」の過程がつくったものであって、人間の「意志」がつくったものではない。そうすると問題は、こうした文化・伝統を破壊してしまったら、人間社会はどうなってしまうのか、ということである。歴史が語るところでは、退嬰と堕落である。人間がつくったものでない以上、しかしながらその存在が社会の秩序形成に現に役立っている以上、われわれにできるのはその存続と進展を邪魔しないことだけである。
 だが、悲しいかな、歴史が教えるところでは、文化は幾度となく没落してきた。だが、喜ばしいかな、同様に、文化は幾度となく復活もした。しかし、勘違いしてはならないのは、文化と同じように民族もまた復活することができると思うことは危険であるということである。民族は通常、1度崩壊すれば2度と復活することはない。考えてもみよ、ローマに滅ぼされたカルタゴ人はどこにいるだろう? ゲルマン人に滅ぼされたローマ人はどこにいるだろう? もちろん、血縁的な子孫ならばいくらでもいるだろう。けれど、彼らは文化・伝統をもったカルタゴという国家の国民ではないし、ローマという国家の国民ではない。彼らは、先祖たちの“精神の高み”にのぼることはできないのである。それは、人間性の進歩からいえば、もったいないことである。伝統を保持していれば、その“高み”から出発することができるのに。民族の滅亡とは、文化の自己喪失に他ならない。
同化しなかった蒙古人
 翻って蒙古人を考えると、つくづく不思議な民族である。普通中原に足を踏み入れた者は、例外なく中国の文化圏に包摂されてきた。契丹人然り、満洲人然りである。ところが、帝国の夢が潰えたとき、彼らの選んだ道は、「遊牧回帰」であった。首都東京で巨万の富を築いた者が、失敗したからといって田舎で農作業に勤しむようなものであろうか。語弊があるだろうが、それが一種の「先祖がえり」であったというのは否めない。けれども、「先祖がえり」したおかげで、彼らは自身の「生き方」を守ることができた。今日何か彼ら独自の「生き方」を、すなわち漢人と己とを区別する「生き方」を堂々と提示できる満洲人は何人いるだろうか。漢人に同化してしまっているのがほとんどではないだろうか。満洲人とて、完全に同化するつもりはなかったはずである。そうであればこそ、満洲の地は長きにわたって漢人の移入を拒否していた。清朝が崩壊したときに彼らが蒙古人のように故郷に回帰できなかったのは、なんともかわいそうなことであった。
 あなたならどっちを選ぶだろうか? 「文明的」な生活を捨てて「自文化」を追求するのと、「自文化」を捨てて「文明的」な生活をとるのと…。現実には、それほど単純な問題ではなかったのだろう。蒙古人だって、なにも好んで中原の豊かな生活を捨てて、草原の慎ましやか生活に回帰したわけではない。そうせざるを得なかったから、そうしたのである。民衆にとっては、あるいはたいした変化はなかったのかもしれない。蒙古人の生活様式はモンゴル高原に根ざしたものであって、中原に進出した「帝国」の形成者たちの生活が特殊であったに過ぎない。遊牧に回帰すれば生活が元に戻るのは当たり前である。当然、帝国の末裔は雲散霧消するのが落ちである。一方、「中華」は再び漢民族の手に回帰するが…波乱の明帝国の幕開けである。





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Last updated  2007.03.04 23:54:22
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