脳科学と哲学で「心の差別」を考えてみた そろそろ「部落問題」の「終わり」についてお話をしませんか③
脳科学と哲学で「心の差別」を考えてみたそろそろ「部落問題」の「終わり」についてお話をしませんか③ バイアスという色メガネをかけた猫より世の中に「部落民」はいない。人間に「部落民」というレッテルを貼る人間がいるだけだ。そいつらは、自分の脳みその中にバイアス(偏見)を持ち、自分のバイアスという色メガネを通じて世界を見る人間だ。メガネをとれ!バイアスというメガネがなければ「部落民」という人間などどこにもいないだろう。バイアスから解放されるのは簡単。バイアスがどこで生まれ、発動するか?バイアスを消し去る方法について知ればいいのだ。そうだあんたらの脳みその内容をみればいいのだ。 はじめに 部落差別(以後、差別)を「心理的差別」と「実態的差別」に分離して考えている人が多い。前回は差別が実態概念であることは説明させていただいたので、今回は「心理的差別」について考えてみたい。 「同和対策審議会答申」(1965年8月)は、「実に部落差別は半封建的な身分的差別であり、わが国の社会に潜在的または顕在的に厳存し、多種多様の形態で発現する。それを分類すれば、心理的差別と実態的差別とにこれを分けることができる。心理的差別とは、人々の観念や意識のうらに潜在する差別であるが、それは言語や文字や行為を媒介として顕在化する。」として、差別を「心理的差別」と「実態的差別」に区分けしている。この「物心二元論」ともいうべき観点で政府や自治体の人権教育・啓発は行われてきた。しかし、本当に「心理」とは何かを理解している人はどれだけいるだろうか? 「心理」とは「心の働き」のことである。ゆえに「心理的差別」は「心の差別」と表現され使用されてきた。そのために、私たちは「心」というつかみどころのないものの中に、差別の根源となるものを探らなければならないという宿命を背負わされることになったのである。 政府や自治体の人権教育・啓発では、「心」を形成している認知、記憶、意識、実践などの機能に厳密に区分せずに、「心の差別」として一括りにしてきた。そのために、現実に存在する差別の基本的性格や歴史性を無視せざるを得なくなり、結局のところの個別の解消過程が曖昧にされ、解消された状態が不明瞭になってしまっているのだ。 「心」とは何か? 人間は古代ギリシャ哲学以前から「心」は心臓あるいは頭にあると確信し、その探究をおこなってきた。長い探究の結果、「心」と「世界」は分離され、「心」を前提として世界は認識されていると解釈されてきた。これが哲学上の「物心二元論」の基となる認識方法となった。 この観点でいえば、人間の「心」にはもともと差別がある。差別があるから差別は生まれるのだとなるが、私たちは「心」の本質を科学的に理解し、人権問題にアプローチしてきたであろうか。差別の最終的な解決を実現するためには、今回は「部落問題の終わりを考える③」として、最終的な課題ともいえる「心」の問題を分析してみようと考える。1、「心の差別」―「心」は見えているか?月下の老子―自分に自分の心を問うお前たちは「これが私の心だ!」と、その形や色を他人に見せられるか? 他人の心はわかるか?しかし、わたしの心はわたしにはわかる。世界にあふれる言葉や絵や音楽などの表現を見ると、間違いなく他人にも心が存在していることがわかる。すべての人間に心は存在する。また、心は常に動きを止めることはない。私が「月が美しい」と認識したとしても、それはすでに過去の状態となる。心は絶えず変遷して捉えどころがないが、私は私の心を通じて私の心の動きを把握しているのだ。 「心」は胸や心臓にあると考えている人もいるが、実際には脳にある。 脳は知覚、記憶、プランニング、睡眠その他、動物が生きるための体の仕組みをコントロールしているが、「心」と脳機能は完全に一体のものではない。脳は「心」が命令しなくても生命を維持するための臓器を動かしている。自分の「心」が自分の心臓に「止まれ」と言っても止まらないし、息を止めて死のうと思っても死ぬまで息を止められる人はいない。「心」は脳機能全体の働きとして形成されているようだが、「心」が脳の機能の全体を統括しているわけではないようだ。「心」の形や機能は依然として未解明な部分が多いのである。 「心」とは何か?が、脳科学的にも依然としてよくわかっていない中で、私たちは「差別」を「心の差別」(心理的差別)として論じてきたが、それは「差別」を科学的問題とすることよりも、人間の内面性、人格あるいは人間の良心の在り方、どちらかといえば道徳的問題にするほうが解決するためには効果的であると考えたからであろう。 しかし、脳科学は差別の根源が「心」を構成する意識の中にあることを突き止めたのだ。※脳はたしかに「物質的存在」である。それは物として取り出すことができ、したがって、その重量を測ることができる。ところが、心はじつは脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。(養老猛司『唯脳論』・ちくま学芸文庫) デカルト―「われ思う、ゆえにわれあり」 ―差別意識があるから差別は発生する―デカルトは「人間の感覚など信用できない」として、まず人間が世界を認識できているかどうかを疑った。もし正しく認識していなかったならば、世界は存在しているかどうかわからないと疑ったのである。 「客観」よりも「主観」にスポットを当てた。 デカルトは「ここにコップがあるが、これは夢かもしれない」と疑う。でも「疑っている自分がいる」ことは確実だと考えた。これが「われ思う、ゆえにわれあり」である。デカルトは「主観」(自分)と客観(世界)を分けて考えたうえで、主観と客観は一致するのか?主観と客観の相互作用について考えた。このデカルトの「物心二元論」は「同和対策審議会」の部落差別を心理的差別と実態的差別に分けて認識するのとほぼ一致している。※ルネ・デカルト1589年~1650年、フランス生。(『方法序説』小場瀬卓三訳・角川ソフィア文庫)2、意識が心を構成している 「心」という不完全なる「脳」の「支配者」の下で働く忠実な僕(しもべ)が意識である。一般的には「心」=意識と同一視され、人権教育・啓発や部落解放運動などでは「心の差別」と「差別意識」は同義語として使われ、「心」と意識は厳密には区分されてはいなかった。その結果、あらゆる差別事象の原因には「心の差別」という実体の不明な曖昧な観念が存在するとして、人権教育・啓発においては法や社会制度、道徳、習慣・習俗の改革よりも、「心のありかた」を変えるという努力が重要視されてきた。私たちは差別とたたかうためには敵を特定しなければならない。そう敵は心に隠れている意識であったのだ。 意識は脳の情報処理ネットワークの中で情報の選択と統合を行う神経活動を指すから、対象に対する認知、意識と一体的に働く。例えば、「彼女を意識する」と言う表現がある。これはある女性に好意を抱いている状態を説明している。これは「心」の状態を示しているが、「心」のようにあいまいな概念ではなく、彼女という対象のもつ情報を処理し、生物学的に選択しているのである。 「差別」は「心」の問題ではなく意識の問題なのである。※意識は実体のないあいまいなものでなく、むしろ意識は情報処理の流れの中で情報の選択と統合というアクティブで構成的な役割を積極的に担っているのである。意識はいわば志向性をもつ高次な脳の情報処理の一様式である。 (『意識とは何か』苧阪直行・岩波科学ライブラリー)カント―「世界は認識可能である」 ―みんなが差別があるといえば差別はある―デカルトの提起した「物心二元論」を受けて、イギリスの哲学者たちは「物質界(世界)が心の外部に独立して存在するということは証明できない」という考えが主流となった。 カントは「人間はリンゴを正確に認識することができないが、しかし、私の認識したリンゴを周りの人も認識していれば、だれもが認めるのだから、そこにリンゴがあることは『客観性』がある」として、主観は物自体を正確に認識していないかもしれないが、主観に現れる世界(現象界)は「他者」と認識の共有ができれば「世界は認識することができる」と提起したのである。認識は他者と共有することで世界は存在すると考えたのである。カントの優れたところは人間が世界を認識するメカニズムは同じであると考えたのである。※1724年~1804年東プロイセン・ケーニスベルク(現在ロシア領)生まれ。主著『純粋理性批判』3、意識を支えているのは認知と記憶 意識は対象を認識するという脳の神経活動により成立する。認識は人間の認知機能(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)を通じて脳内に言葉として置き換えられて記憶されることにより成立する。あらゆる日常的、あるいは知的活動の根源はここにある。 差別は誤って記憶されている情報の産物である。 人間は記憶により、過去と現在を結びつけているから、自己存在を確認しつつ生きていけるが、記憶内には誤った情報が内在し、それが時代錯誤を生む。脳科学では、それを記憶錯誤という。記憶錯誤では記憶の歴史性を支える構造的な仕組みが崩壊しているらしいが、素人の私では、それを説明するのは難しいのでやめる。 「部落」に対する差別の発現は記憶錯誤の結果であり、自己の記憶内に存在する歴史および存在認識が現代社会の歴史および存在認識に一致しなくなっているからである。ゆえに、謙虚な人間ならば学習すれば簡単に記憶の修正や是正は可能なのであるが、脳にはそれを妨害する機能があるのだ。 記憶の修正を妨害するのは感情である。※心理世界のすべての現象は記憶無しで語ることはできない。言葉が話せるのも、言葉の意味がわかるのも、物が見えるのも、見たものがわかるのも、記憶があればこそである。 (『脳から見た心』山鳥 重・NHKブックス)ヘーゲル―弁証法で「物心二元論」を否定 ―意識のみを問題にすればいい―ヘーゲルは意識と社会は結合しており、人間の意識の変化は社会の変化に対応しているから意識のみを前提とすればいいと考え、「主観」と「客観」という区分は必要がないと、デカルト以来の「二元論」を否定し、意識に(主観)現れることだけを問題にすればいいと主張した。ヘーゲルの弁証法は人間の意識には、A(テーゼ)とB(アンチテーゼ)という二項対立の原理があり、その対立から、より統合されたC(ジンテーゼ)の認識に至る。さらに、Cは新たな対立をうみ、さらに高い認識に到達するというものである。これを弁証法という。1770年~1831年、ドイツ出身主著『精神現象学』『法の哲学』などがある。4、記憶を支える言葉に感情がある 差別は多くの場合、言葉で発現する。言葉は記憶していた事柄を容易に再現し、思考や知識の再構成を可能にし、他者とのコミュニケーションの手段としても、主観的経験や知識を伝える手段として大きな役割を果たしているからだ。 しかし、記憶には2つの側面がある。ひとつは記憶の衰退である。人間の記憶はあることを経験してから、時間が経てばたつほど内容のいろいろの部分が抜けおちて、もとのできごとの断片しか残らなくなってしまう。人間の記憶はピースの抜けおちたジグソーパズルのようなものであるということだ。 ふたつ目は、記憶の改ざん・変容である。人間の記憶の場合は、毎日、たくさんのできごとを経験する中で記録される無数の記憶が、分類や整理されることもなく、雑然と保存されているから、記憶にも思い違いがあるように、体験してないことをあたかも体験したかのように思い出してしまう。 こうした現象の背景にあるのは、記憶と脳の関係は記憶の種類によってどうやら蓄えられている場所が異なっていることにあるようだ。 記憶は脳の中の海馬と呼ばれている部分が働いている。海馬を通して作りだされた記憶は、大脳新皮質という場所に蓄えられる。一方、記憶には、いわゆる体で覚える記憶がある。これは小脳に蓄えられ、強い感情をともなったできごとの記憶は、これらの二つとは異なった場所に蓄えられている可能性が明らかにされている。 記憶された言葉の中に感情も封印されている。※参考・『記憶の不思議がわかる心理学』(高橋雅延・日本実業出版社)マルクス―観念論から唯物論へ ―差別意識は法や社会の反映である―マルクスは観念は世界の反映であるだけでなく、観念と世界は切り離されることなく実践を通じて統合的に認識されるとして、それまでの機械的唯物論の弱点を克服し、唯物論とヘーゲルの弁証法が結合された唯物論的弁証法という認識方法を確立した。この認識をもとに歴史は階級闘争により発展することを解明した。特に、イギリスの産業革命以後の資本主義社会の発展を分析することにより、資本主義のもとで搾取される労働者階級が資本主義社会を変革して社会主義社会を実現する必然性を明らかにした。しかし、マルクスの生きていた時代は産業資本主義の黎明期、政治的には帝政や立憲君主制の時代であったため、高度に発達した資本主義社会のもとで、人民の自由と民主主義が完全に保障される社会主義社会のビジョンは明らかにされていない。崩壊したソ連の社会主義理論は主にマルクスの初期の「革命理論」に基づき、レーニンなどによって構築されたもので、現代においては「国家社会主義」などと批判されている。1818年-1883年ドイツ生まれ、『資本論』『共産党宣言』他。5.「差別意識」の核心にあるのは憎悪感情である 記憶には言葉とともに様々な感情が保存されている。例えば失恋した記憶には、当時の感情も存在するから、思い出すと悲しくなるのはそのためである。 「差別意識」の核心は、記憶された誤った情報にある。当然ながらその情報には感情が内包されている。「部落」に関して言えば、幼い時に両親をはじめ自分の信頼している人に「部落の子と遊ぶな」と言われた人は、大人になっても「部落」に対して特別な感情を持つ人が多い。それはその時の感情を言葉の中に保存しているからである。 「部落の子と遊ぶな」という「部落」に対する忌避・排除意識の根源には悪意あるいは憎悪が存在する。悪意あるいは憎悪の中には、程度の差はあるが、敵意(憎悪の種というべきもの)が存在しているのである。それを脳科学的にいえば、すぐに敵・味方を分ける脳の左右に存在する扁桃体と結びついた原始神経ネットワークがはたらいているのである。 この原始神経システムは恐怖や憎悪などの感情を生む。個別的には毒蛇や蜂に遭遇すると、恐怖を感じて逃げるという行動をとらせたり、憎悪は嫌いなものを徹底的に叩きのめそうとする。こうした感情は歴史や社会体制のような抽象的なものに対しても発生する。自分の生存を脅かしたり、不利益を与えると感じる他者に対する攻撃を正当化するために、「ユダヤ人は劣等である」「黒人は知能が低い」「部落民は穢れている」など、非科学的で根拠のない差別・偏見を容易に信じ込むようになるのである。 ※2020年09月30日・「あなたは差別意識がなぜ生まれるか知っていますか?人権教育・啓発が新しい差別社会をつくる」唯物論から唯脳論へ―「意識」は脳の情報処理機能である ―差別意識は自分の脳の老廃物だ―観念と世界の関係を解明してきた哲学は転換点に差し掛かっている。脳科学の発展が意識は脳の活動であり、「観念と世界は切り離されることなく実践を通じて統合的に認識されている」ことが証明されつつあるのだ。部落差別意識とは脳に集積された情報の一部ということであり、その情報が誤っているために部落差別が発生するのである。意識は脳という物質の働きであり、生きるために必要な情報を収集し、分析し、適応するために最善の方法を選択する情報処理機能なのである。意識と実態を区分してはならないのだ。※「意識とは何か。それは脳の機能である。これは馬鹿みたいな答えだが、それしか言いようがない。意識の問題がこじれて唯心論や唯物論が生じるわけだが、どんなことを論じるにせよ、ものごとには前提というものがある。」(『唯脳論』養老孟司・ちくま学芸文庫)※意識はいわば志向性を持つ高次な脳の情報処理の一様式である。意識を考えるとき、われわれの悪い癖は初めに辞書を持ちだして、それが持つ多様で重層的な意味領域に幻惑されてしまいホールドアップをかけられてしまうことである。(『意識とは何か』苧阪尚行・岩波科学ライブラリー)6、「差別意識」を無くすことはとても簡単なことである 「心」―意識―知覚―記憶(言葉)―差別感情について検証してきた。この関連は「心」の中で直線的にではなく円状に循環していると認識するべきである。 この図式から言えば、差別をなくすことは記憶の修正ないし、是正すればいいことだから極めて簡単なことなのだ。まず、差別者と対面し、事実誤認を是正するとともに、記憶に潜む個人の憎悪感情の原因をとりのぞき、法と社会常識に基づく価値観を共有することである。 しかし、長い運動経験の中でいえることは差別者の中には、「差別はしていない」と平気で強弁する「厚かましい」のもいる。だからといって「確認・糾弾権」を発動するわけにはいかないから、訴訟・裁判を行うか、世論の力をかりて反省を促すしかない。面倒なことだが、そうした積み重ねが「社会の力」となる。その「社会の力」を横につないでいるのが共感力だ。これを成長させることが人間社会の理性的発展の原動力となるのだ。 共感とは他者の考え方や感じ方を理解しようとすることで、それが正しいと認められなくても、最悪の敵に対しても相手の身になって考えようとすることである。そうした立場でいる限り、理解や和解の機会は生まれるのだ。 この共感のスイッチが切れると、脳は原始神経システムを発動し、憎悪は敵意の形をとり、その敵意が、「さまざまな刺激」で増幅されることにより、理性を司る高等神経システムは抑圧され、理性的な働きは弱められ、脳は感情的な状態に置かれることになるのである。※共感と同感は違う。共感とは他者の考え方や感じ方を理解しようとすることで、それを正しいと認められなくてもかまわないのだ。最悪の敵でも、その身になって考えることには意味がある。相手の動機がはっきりと理解できれば、和解の機会が生まれる。『人はなぜ「憎む」のか』(ラッシュ・W・ドージアJr・河出書房新社)最後に老子から一言 部落問題の「解決過程」の最終段階を「解消過程」であると規定し、「市民的で平等な人間関係の発展」とか「人間観の成熟」を通じて「解消する」という観念的な意見が流布されているのを見て心配になった。問いたい。「過程」とは物事が変化し進行し、ある結果に達するまでの道筋のことだから、「過程」の間は「差別意識」と「部落差別」は存在していることになる。「解消過程」の終わりはいつ、どのような実践を経れば「解消した」と言えるのか? 「人間関係の発展」「人間観の成熟」した段階になれば「解消」するということか?こんな高邁な理想いつになったら実現することやら。部落差別解消推進法が「部落差別がある」というのとあまりちがわないように思えるのだが。本ブログで、旧い部落差別は解決した。今日の部落問題は人権・同和教育、不必要な同和対策と行き過ぎた運動行為の残滓が原因となり国民の差別意識は変容し続けていることを論証した。実態と意識の相互関連についてはしっかり学ばねばなりませんよ。