テーマ:ライフスタイル(299)
カテゴリ:ライフスタイル
朝のカーラジオで時節柄、永六輔さんが忠臣蔵について語っていた。
生きることと死ぬこと、いのちについてまたちょっぴり考えてみたりした。 本田美奈子さんは生きたいと願いながらも死んでいった。 赤穂浪士の大石内蔵助の長男、大石主税良金は自らの意思で志願し武士道を貫き、若干16歳で切腹した。 ボクはかってまことに情けないことを考えたことがある。 大失恋の痛手に自殺をしようとしたのだ。 実のところ自殺というより自殺に見せかけた仮想自殺「死んだふり」をしようと考えたのだ。 それは彼女に自分の存在を認めて欲しいと思ったからだ。 結局、そんな自分の情けない考えに計画は実行しなかったが、いまでもそんな自分の「命」を弄んだ思いが甚だ恥ずかしい。 その後、落ち込んだままのボクは友だちに「この地を離れて一からやり直す」と投げやりに言った。 それもまたひとつの方法かも知れないと答えた友だちは側にいたその奥さんと共にしばらくしてこう言った。 「やっぱり、おまえがいなくなるとやっぱり寂しいよ。もう少しここで頑張れよ…」 その言葉に家に戻りボクはしみじみと考えた。 彼女には必要のされなかったけれど、そんな風に自分の存在を認めてくれる人たちが間違いなく自分の周りにいることを改めて知ったのだ。 そしてそんな人たちの為に頑張って生きてあげるのもいいのかも知れないと思った。 生きるということは案外そんな風に単純なものなのかもしれない。 どんな人間であれ必要としてくれる人たちが必ず存在するのだ。 そんな人たちの為に生きてあげることもまた正解なのだ。 以前、このブログで書いたけれど、ボクが行っている教会の日曜礼拝のウィークリー・レポートの裏面にこんな文章が印刷されている。 < 最も偉大な祈り > 私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。 私は、あなたの期待に答えるために、この世にいるのではない。 あなたも、私の期待に答えるために、この世にいるのではない。 あなたはあなた。私は私。 もしもわれわれが、たがいに願いに答えることができたら それは素晴らしい。 しかし、たとえたがいの願いどおりの行動ができなくても われわれが良き友であることは変わりはない。 フリッツ・パールズ いっけん冷たいと思える文章だけど実に愛に満ちた思いがその裏側に読み取れる。 愛の反対にあるものはなんだろう。 愛の反対にあるものは「無関心」であるとマザー・テレサは言った。 なんと深い表現なのだろう…。 互いに相手を思いながら「互いに」「生き合う」ことができたらなんと素敵なことだろう。 だからボクの仮想自殺はなんと子供じみた発想だったことだろう。 そしてボクはこれから一生懸命に生きてみようかなって真面目に考えるのだ。 明日は所属している福島県フォークソング協会の忘年会コンサートだ。 そして来る24日は教会の(キャンドルサービス)クリスマス・コンサートがある。 8月に立ち上げたゴスペル・クワイヤがデビューするのだ。 しかし、それにしても年末になって遣り残したことが多いなあ。 なんてったってオリジナルの自作CD作成出来なかった…。 でも絶対に来年は作ってこのブログの楽友たちに送信するから。 約束したんだものね。 でもさ、前出したフリッツ・パールズの「最も偉大な祈り」ではないけど(良き友)であることは変わりないよね。 みんな、どうかな? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年12月18日 02時48分04秒
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