コルテス「トマト」に出会う
●コルテス「トマト」に出会うコルテスたちが入城したテノチティトランの北部トラテロルコの広場には、大きな市場が開かれており豊かな農産物があふれていた。しかし、コルテス一行と「トマト」との初めての出会いは、あまり良い印象ではなかったようだ。カスティリョ(コルテスに同行していた記録者)は「我々を殺して食べようとしている、というのも彼らの意図にぴったりの、塩、唐辛子、そしてトマトの入った深鍋が準備されていたからである。軍神像の前で、我々のうち20名を生贄にするという誓いがなされていたことは、よくわかっていた」生贄の儀式を目の当たりにしたり、一行は不安にかられていたようだ。が、この記述から先住民が「トマト」をどんな風に食べていたか推測できる。塩、唐辛子、トマト、これはメキシコでサルサ(ソース)をつくる材料である。サルサにして食べていたのだろうか。しかし、サルサを深鍋では作らないので、煮込み料理と解釈したほうが良いだろうか。コルテス一行には宣教師も同行していた。彼らは、「トマトはいつも唐辛子と一緒に売られている」とか「トマトを唐辛子と一緒にすりつぶしたり、混ぜ合わせたりしてソースを作り、色々な料理の調味料にしている」と書かれている。それによれば、トマトを使ったソースは「食欲増進に役立った」、唐辛子が「焼け付くように辛い」のに対しトマトの方は「滑らかな味だ」と強調されている。アステカ文明は文字を持たなかったので当時の記録としては、征服者スペイン人のものしか残っていない。つまり、文献上で見る限り最も早くトマトに出会ったヨーロッパ人のはコルテス一行ということになる。しかし、ここに大きな問題がある。これらの文献に書かれた「トマト」が果たして、今私たちが食べているトマトと同じものであったのかである。なぜならトマトの語源は、ナワ語で「トマトゥル」であり「ふくらむ果実」という意味だ。このトマトゥルは、いわゆる赤いトマトと食用ホオズキの両方に使われていた。つまりこのトマトゥルが赤いトマトをさしているのではないのである。メキシコでは、現代に至るまで盛んに食用ホオズキが食べられている。現代のメキシコで「トマテ」といえば、「トマト・ベルデ」すなわち緑色のトマトをさす。じつはこれはトマトではなく、食用ホオズキなのだ。そして、赤いトマトの方は「ヒトマテ」と呼ばれている。メキシコでは、緑色の食用ホオズキはトマトと並んであらゆる料理に欠かせない素材である。どんな家庭でもレストランでも、食用ホオズキをすりつぶしたジュースの中に、刻んだ玉ねぎ、コリアンダー、青唐辛子、玉ねぎを混ぜ、サルサソースとして用いる。また、赤いトマトもサルサにされる。サルサ・ベルデ(緑のソース)、サルサ・ロハ(赤いソース)はトウモロコシの粉を焼いたパントルティーヤなどに使われる。ところがスペインに行くと「トマテ」とは赤いトマトにほかならず、トマト・ベルデ(緑のトマト)と称する食用ホオズキを食べる習慣はない。ここに混乱が生ずる。当時のスペイン人の書にある「トマテ」とはいったいどんな「トマテ」だったか。赤いトマトなのか食用ホオズキなのか。その両方か。のちの歴史学者もこれらの文献をもとに考察しているため、「トマテ」や「トマトゥル」を単に「トマト」と解釈している場合がある。この混乱はメキシコ以外では現在も続く。どうやって赤いトマトを見分ければ良いのか。 ←前のページへ 目次へ 次のページへ→ 出典:「トマトが野菜になった日~毒草から世界一の野菜へ~」橘みのり 著