テーマ:戦争反対(1189)
カテゴリ:独り言
ご存知の通り、8月15日は「第二次世界大戦」の終戦記念日ですね。 もちろん私は 『戦争を知らない子供たち』 の一人ですが、5年前72歳で他界した父は戦争体験者。
昨日来、お墓参りに帰郷したとき、父が書いた手記が出てきました。 肺癌に侵され、余命1年半と宣告された平成11年に、私たちに伝えようと書いたと思われます。(最後まで父には病名を伏せていましたが、本人は気付いていたようです) 父の意思を想い、ここに全文を紹介します。(ノンフィクション、原文のまま)
表紙
はじめに 昭和二十年(1945)四月は、私にとって三重師範(注1)一部入学の記念すべき年ではあったが、その喜びも束の間、八月には敗戦、七月に津の町消炎、母校消滅の悲しい年でもあった。 学園生活四ヶ月余りの体験は、既に半世紀以上経過した今日でも悲惨な記憶として留めている。 再びくり返してはならない、戦争への憎しみに燃えながら記することにいたします。 ※ 注1:三重師範学校、現在の三重大学
[一] 機銃掃射を受けて 昭和二十年六月、桶(おけ=師範の呼び名)の一年生数名は、毎日の事ながら、穴掘り(対戦車自爆の穴)訓練のため、鍬やスコ(注2)を肩に道路を二列縦隊で行進していた。
午後二時頃空襲警報のサイレンが聞こえた。 「ウン、又か」 と差して気にも留めず行進を続けた。 その時前方の木々の合間に、飛行機が音もなく近付くのが見えた。 私達は日本の零戦と思い校歌を唄いながら歩を進めた。 と、見るみる機影が正面から低空飛行に移った。 「おかしいぞ」 と思った時 「グラマン(注3)だ、散れ」 と教官(配属将校)の大声。 私は夢中で右に飛び退いて顔を伏せた。 二米(注4)も跳んだであろうか、伏せた所は泥田の中だった。 左耳の近くで 「チュンチュン」 と機銃掃射の弾丸が不気味な音をたてて道路上を跳ねていくのが聞こえた。 「列に戻れ」 と教官の声。 私達は泥だらけの姿で体形に着いた。 「ホー」 とひと息も束の間、右旋回したグラマンは、後方から再び私達を狙って来た。 「まだまだ」 続いて 「散れ」 と教官の声。 グラマン機上の顔(注5)が目に入った一瞬、左に逃げ泥水に顔を伏せた。 三、四回執拗に掃射されたように記憶しているが、全員難をのがれることが出来た。 今日の掃射は、私達を兵隊行進と間違ったのではないだろうか? その夜は、震えが止まらず一睡も出来なかった。 ※ 注2:クワやスコップ 注3:アメリカ軍の戦闘機、通称ヘルキャット 注4:2メートル 注5:パイロットの顔 グラマン
[二] 狙われた学園 七月二十四日午前十時頃だったか、本館で授業中 「空襲警報発令、只今B29(注5)の大編隊、宇治山田上空を北進中」 の放送有り。 私達は二階の教室から誠之寮へ警報発令の装備に着替えにもどった。 発令から三分余りで準備して、本館の地下防空壕へ向う渡り廊下を歩行していた時、突然 「ヒューバリバリ、ドドーン」 の大音響と共に、左右の壁が私を直撃し、爆風で廊下から土間へ吹き飛ばされ、そのまま意識不明の失心状態になってしまった。 このことは一瞬の出来事で、意識回復後知ったことである。 失心からどれ程時間が過ぎたのか定かではないが、気が付いた時にはまだ爆撃が続いていた。 私は腹這いのまま本館地下壕に向かい、非難することが出来た。 そこには教官や級友が避難しており、「ほっと」 胸をなでおろしたのである。 後で知ったことだが、倉田先輩が爆弾で命をおとされたとの事である。
空襲解除後、運動場へ出てみると、五十余りの弾穴が口を開け、付属小の校舎や誠之寮も破壊され、本館の周囲は一面火の海と化していた。 そこに一人、かしこに三人と負傷者や、首や手足の無い死者がころがり、地獄絵図そのものであった。 私達は死者や負傷者を寺院や病院へ運んだり、壊れた建物の下から 「助けて」 と叫ぶ市民を助け出したり、燃え迫る火を消したりして、一日中夢中になって崩れそうになる心に鞭打ちながら懸命に働いた。 最も痛ましかったのは、恩師の奥様が我が子を抱かれたままの姿で、真黒に焼かれ壕の中で死亡されていたことや、校舎(音楽室)の修理のために屋根に上り仕事をされていた大工さんが、全員一片の肉塊と化していた事等、痛ましい極みであった。 思うに今日の空襲は、学園を狙ったのであろうが、五百キロ爆弾一発でも本館直撃なら、多数の級友と私も助からなかったと思われるものである。 ※ 注5:アメリカ軍の大型爆撃機。 広島、長崎に原爆を投下したのもB29(エノラゲイ)。 B29
[三] 焼夷弾攻撃により津の町全滅 七月二十七日、この前の空襲で誠之寮が灰と化したため、私達は津中へ移転して学習することになった。 午後十時消灯、今夜の空襲を予測して、上下服にゲートル姿で床に着き、枕元に救急用具を準備した。 「うとうと」 とまどろみかけた時、空襲警報となった。 屋外へ出ると津の上空は、B29の焼夷弾攻撃が江戸橋、津海岸方面から始まっていた。 遠くに打ち上げ花火のように美しく見え、しばらく見とれていたが、またたく間に都心へと迫ってきた。 危険を感じた私は、布団に水をかけ頭からかぶって避難道を探したのであるが、火を噴いた焼夷弾が雨霰のように降ってくるので、歩くことも留まることも出来ず、とにかく落下する焼夷弾、地上で火を噴く焼夷弾、迫り来る猛火を避けながら級友ともいつしか分かれ、夢中で逃げ惑っていた。 いつの間にか布団も焼け、靴も脱げ素足のまま山中へ逃げ込んでいた。 しかし山中も安住の地ではなく、山火事となって周囲から迫ってきた。 進退極まった私に天の助けか小池が目に入り、そこへ飛び込んだ。 火の治まるまで顔だけ水面に出す忍者の姿で一刻余り密むことにした。 夏とはいえ、深夜の水は膚身にこたえ、ずぶ濡れのまま震えていたと思われる。 その内に夜が明けて来た。
散りぢりになっていた学友も一人、二人小高い丘に集まって来て、確か十一名だったと思われるが互いの無事を確かめ合ったのである。 丘の上から見えた津の町や母校も真っ赤な炎に包まれ、この世の終わりのように感じられた。 茫然自失、直立不動姿勢の十一名は、母校に向って深々と最敬礼を以って母校に別れを告げたのであった。
十四才の夏、私は今日も生を恵た。 それから二週間あまりの八月十五日、終戦を迎えたのである。 合掌
昭和二十六年 三重大卒
※ 文中の注釈は、私(ないす)が勝手に入れました。
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生前、父から戦争体験について少しだけ聞かされていたが、こんな詳しいことは知らなかった。 この体験記を読んで、もっと詳しく話を聞きたいと思ったが、それも今では叶わぬ事。
三重県の津で この惨状なのだから、広島・長崎の原爆や、東京大空襲、沖縄決戦などは想像を絶する地獄絵だったことだろう。
現在でも世界の各地で戦争や紛争、テロが勃発し、尊い命が犠牲になり続けている。 地球上すべての国と地域に平和が訪れることを切に願うと共に、犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈り致します。
この『狙われた学園』を読んでいただき、ありがとうございます。 読んでくださった皆様、コメントをくださった皆様に、父に成り代わり感謝申し上げます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
私の父は少年飛行兵だったわ~。(大正13年生まれ)
小さいころは毎年戦友会に着いて行った記憶が。 戦争のことは直接聞いたことは無かったけど、 飛行機の絵を描いてもらったことがあったな~。 高校1年のときに父が亡くなって、もっと聞いておけば良かったと何度も思って それから戦争関係の本を読みあさったよ~。 (2008年08月13日 17時35分25秒)
私のじいちゃんも戦争で亡くなっています。
だからお墓の中には骨はありません。 『利海勇志乃墓』と刻まれたお墓。 でも母は私が小さい頃からこのお墓に来るたびに おじいちゃんは日本の為に亡くなったんだよって。 写真に写っているじいちゃんは、私そっくりです。 二度と戦争が起きませんように・・・・ (2008年08月13日 18時55分16秒)
息を飲んで、拝読しました。
ないすミドルさんの お父さまは、凄い作品を残されましたね。 戦争を知らない私ですが、こういうお話しを聞くと当時の悲惨さや無念さ、恐怖が伝わって参ります。 二度と戦争を繰り返さないように、皆が心すべきだと思います。 貴重なお話、ありがとうございました。 お父上さまのご冥福をお祈り申し上げます。 (2008年08月13日 19時14分07秒)
貴重な体験記、心打たれる文面でした。
戦争体験をされた方々のお話を伺っていると 今の私たちの生活を築いてくれたことに感謝の気持ちで一杯になります それにしても70歳にしてこの達筆と文面のすばらしさ! 日ごろのないすさんの文章力にも納得です! 不景気なくらいで文句言ってる私が恥かしいです^^; (2008年08月13日 20時59分58秒)
ミャンマーに出兵してました。一昨年は九州は鹿児島の知覧に渡り特攻の母として有名な鳥浜トメさんの旅館、『富屋旅館』に宿泊して当時の事を色々聞いてきましたよ。
さすがに特攻平和記念館はこたえました。死んでいったのは殆ど10代の若者。でも今の女将の生の話を聞けました。 その後は長崎、広島に向かい呉港まで行って来ました。戦争はもちろん起きてはいけませんが、平和すぎる時代の堕落した人間も不安なところです。 (2008年08月13日 22時56分36秒)
戦争をこういう形で 今の私たちに伝えて下さっているミドルさんのお父さんに 感謝します。 もはや、親の世代も 語れなくなってきた戦争。 うちは祖母と母が東京大空襲で 家を失いましたが 彼女たちが生き延びてくれたおかげで いま、ここに私が生きています。 綿々とつないでいくいのちが 突然不条理に断ち切られるのは どこの世界にもあってはいけないことですよね。 この時期に 一年一度は ちゃんと考えてみなければね。 平和。 (2008年08月14日 22時55分01秒)
ご無沙汰しておりますm(_ _)m
お元気そうで何よりです♪ (2008年08月16日 10時04分37秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>私の父は少年飛行兵だったわ~。(大正13年生まれ) > じゃあ終戦時は21才ですね。 もしも特攻に出陣されていたら、すずさんの存在は無かったのかも(^_^;) >小さいころは毎年戦友会に着いて行った記憶が。 >戦争のことは直接聞いたことは無かったけど、 >飛行機の絵を描いてもらったことがあったな~。 > 飛行機の絵は、もちろん神風(ゼロ戦)? >高校1年のときに父が亡くなって、もっと聞いておけば良かったと何度も思って >それから戦争関係の本を読みあさったよ~。 ----- 昔オイラも月刊「丸」を読んでました。 今でも継続発行されているから、驚きです(☆o☆) MD杯応援、ありがとうございましたm(_ _)m (2008年08月16日 22時16分39秒)
Re:戦争が二度とおこらない様に・・・(08/13)
>私のじいちゃんも戦争で亡くなっています。 >だからお墓の中には骨はありません。 >『利海勇志乃墓』と刻まれたお墓。 > そうなんですか、お墓に遺骨が無いって悲しいですね。 オイラの叔父さん(父の兄)も第二次世界大戦で戦死しました。 だから遺影しか見たことがありません。 でも満州から引上げた後の戦病死なので、遺骨はあります。 >でも母は私が小さい頃からこのお墓に来るたびに >おじいちゃんは日本の為に亡くなったんだよって。 > 「お国のために命を落とした」と、納得するしかないもんねぇ(T△T)アウアウ~ >写真に写っているじいちゃんは、私そっくりです。 > じゃあ若い頃はモテモテのおじいちゃんやね♪(*'-^)-☆ >二度と戦争が起きませんように・・・・ ----- 私たち以降の世代は「戦争を知らない子供たち」のままで居たいです。 (2008年08月16日 22時25分44秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>息を飲んで、拝読しました。 > 読んでいただいて、ありがとうございます。 >ないすミドルさんの >お父さまは、凄い作品を残されましたね。 >戦争を知らない私ですが、こういうお話しを聞くと当時の悲惨さや無念さ、恐怖が伝わって参ります。 > そう言っていただけると、 この体験記を残してくれた親父も草葉の陰で喜んでいる事と思います。 >二度と戦争を繰り返さないように、皆が心すべきだと思います。 >貴重なお話、ありがとうございました。 > 私も読んだ時、親父の体験を誰かに伝えようと思い、ココに書かせていただきました。 数人でもいいから、悲惨な戦争の事実を知っていただきたかったのです。 こちらこそ、読んでくれたヨザちゃんに感謝です。 >お父上さまのご冥福をお祈り申し上げます。 ----- 親父に温かいお言葉、ありがとうございます。 (2008年08月16日 22時41分11秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>貴重な体験記、心打たれる文面でした。 > ありがとうございます。 読んでくださり、感謝いたします。 >戦争体験をされた方々のお話を伺っていると >今の私たちの生活を築いてくれたことに感謝の気持ちで一杯になります > 本当にその通りですね。 戦死された方々のおかげで今の日本が、 私達の暮らしがあるのですから。 もしも親父が空襲の犠牲になっていたら、私の存在すら無かったのですから。 生き延びてくれた親父に感謝です。 >それにしても70歳にしてこの達筆と文面のすばらしさ! >日ごろのないすさんの文章力にも納得です! > 私が言うのもなんですが、親父は立派な人格者でした。 酒癖が悪かったのが、玉に瑕ですが(笑) 残念ながら私は親父の良いところを受け継がず、 悪い所だけを伸ばしたようです(自爆) >不景気なくらいで文句言ってる私が恥かしいです^^; > > ----- いやいや、この不景気には私も文句を言いたい! 文句を言ったところで、どうなるわけでもないけれど・・・(>_<) (2008年08月16日 22時49分53秒)
Re:自分の爺さんも(08/13)
>ミャンマーに出兵してました。 > 旧ビルマですね。 ビルマも旧日本軍と係わりの深い国。 アウンサンスーチー女史が有名ですが、いまだに内戦が続いてる(^_^;) >一昨年は九州は鹿児島の知覧に渡り特攻の母として有名な鳥浜トメさんの旅館、 >『富屋旅館』に宿泊して当時の事を色々聞いてきましたよ。 > すごい行動力ですね! >さすがに特攻平和記念館はこたえました。死んでいったのは殆ど10代の若者。 >でも今の女将の生の話を聞けました。 > 特攻兵は妻子無き若者がほとんどでしたね。 将来ある、たくさんの若者が特攻として尊い命をお国に捧げました。 >その後は長崎、広島に向かい呉港まで行って来ました。 > 呉港といえば、浮沈戦艦大和の母港ですね。 >戦争はもちろん起きてはいけませんが、平和すぎる時代の堕落した人間も不安なところです。 ----- 戦後63年、日本が平和ボケするのも当然ですよ。 もちろん私もその中の一人、堕落しています(^_^;) そんな私でも、戦争は二度と起こしてはならないと思っています。 (2008年08月16日 23時07分43秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>戦争をこういう形で >今の私たちに伝えて下さっているミドルさんのお父さんに >感謝します。 > ありがとうございます、親父に成り代わりお礼申し上げます。 一人でも多くの方がそう思ってくださることで、親父も喜んでることでしょう。 >もはや、親の世代も >語れなくなってきた戦争。 > 私も子を持つ親の一人、戦争を知らない世代です。 少しでも多くの若者に、コレを読んでもらえると嬉しいのですが。。。 >うちは祖母と母が東京大空襲で >家を失いましたが >彼女たちが生き延びてくれたおかげで >いま、ここに私が生きています。 > エダちゃんのご家族も戦争被害に遭われたのですね。 私も親父が生き延びてくれたから、今こうして生きています。 両親に感謝です。 >綿々とつないでいくいのちが >突然不条理に断ち切られるのは >どこの世界にもあってはいけないことですよね。 > 交通事故や不慮の事故・災害で命を落とすのも辛いですが、 戦争は人と人とが殺しあうこと、最悪の死に方じゃないでしょうか。 二度と起こらない様にしたいものです。 >この時期に >一年一度は >ちゃんと考えてみなければね。 > >平和。 ----- 終戦記念日に合わせてアップさせていただきました。 コレを読んで、平和についてほんの少しでも考えていただければ幸いです。 ありがとうございました。 (2008年08月16日 23時21分23秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>ご無沙汰しておりますm(_ _)m > こちらこそご無沙汰しています。 >お元気そうで何よりです♪ ----- 私はいつも元気です。 ソレだけが取り柄ですから♪ ノー天気ですが・・・(笑) (2008年08月16日 23時24分29秒)
題名の文字だけをみたら
角川映画のノベライズみたいなのに・・・。 内容たるや、 後世に伝えるべき すごいものでした。 それにしても 字もとてもお上手だし、 当時で大学に進学されているとは かなり優秀な方だったんですね。 うちの父の家も 東京大空襲で丸焼きにされたらしいが・・・ 田舎の親戚筋の所へと 疎開していたらしい。 疎開先では 東京もんと意地悪をされ、 それはそれで大変だったらしいけど。 (2008年08月17日 00時39分38秒)
戦争を知らないから・・・・
戦争映画は、見るたびに胸が痛みます。 私が生まれたころには祖父は戦死した後で お国から名誉勲章のようなものを受けていました。 死ぬことが名誉だなんて・・・ そんな間違った教えをしてきた日本の戦争。 (捕虜として捕らわれ、生き延びることさえ許されないなんて・・・) どれだけ悔しく、どれだけ悲しかったでしょう。 守りたいものがあるからこそ 耐えてこられたんでしょうね? 私の周りでも、小さな争い事は絶えません。 ほんの小さな思いやりの心さえあれば・・・と いつも思ってます。 (2008年08月17日 14時19分14秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>題名の文字だけをみたら >角川映画のノベライズみたいなのに・・・。 > いえいえ、そんな立派なものではありません。 >内容たるや、 >後世に伝えるべき >すごいものでした。 > 我が家に埋もれているよりも、戦争の悲惨な現実を 一人でも多くの人に知っていただきたくて、ここで紹介させていただきました。 >それにしても >字もとてもお上手だし、 >当時で大学に進学されているとは >かなり優秀な方だったんですね。 > 親父は習字の先生、国語と体育の教師でした。 私とはあまりにもかけ離れていますが・・・ 尊敬できる、立派な親父でした。 >うちの父の家も >東京大空襲で丸焼きにされたらしいが・・・ >田舎の親戚筋の所へと >疎開していたらしい。 > 津でこの状況ですから、東京大空襲はさぞ悲惨な状況だったでしょう。 >疎開先では >東京もんと意地悪をされ、 >それはそれで大変だったらしいけど。 ----- 田舎もんには東京もんが眩しくて。 ついつい意地悪しちゃうんです。 本当は東京に憧れているハズなのに、 仲良しになりたいハズなのに・・・ (2008年08月17日 20時56分35秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>戦争を知らないから・・・・ >戦争映画は、見るたびに胸が痛みます。 > 時雨ちゃんも戦争映画を観るのですか。 私も昔、親父に見せられました。 銀幕の中に悲しい現実が見え隠れして、涙が出ますね。 >私が生まれたころには祖父は戦死した後で >お国から名誉勲章のようなものを受けていました。 > 私の伯父(親父の兄)も太平洋戦争で戦死。 叙勲を授かりました。 本人が目にすることの無い勲章なんて意味が無いのに・・・ >死ぬことが名誉だなんて・・・ >そんな間違った教えをしてきた日本の戦争。 >(捕虜として捕らわれ、生き延びることさえ許されないなんて・・・) > 当時の日本は帝国・軍国主義。御国の命令は絶対ですから。 >どれだけ悔しく、どれだけ悲しかったでしょう。 >守りたいものがあるからこそ >耐えてこられたんでしょうね? > 時雨ちゃんのお爺様は捕虜になられ、自決されたのでしょうか・・・ 最愛の家族に会えず、我が子よりも先に逝くなんて、 さぞや無念だった事でしょう。 >私の周りでも、小さな争い事は絶えません。 >ほんの小さな思いやりの心さえあれば・・・と >いつも思ってます。 ----- 最近はほんの些細なことで人の命が奪われたりします。 ほんの少しの金品が欲しいがために、人を殺めたり、 ちょっとした感情の行き違いで、家族の命を奪ったり・・・ ある意味、戦争よりも怖い事かも知れません。 思いやりの心を常に持ち、優しく生きてゆきたいですね。 (2008年08月17日 21時12分35秒)
大変貴重な物を拝見できました
戦争の事実を風化させてはいけません しかし戦争経験者が少なくなって生で話しを聞く事が難しくなって来ている現実 僕の親父は戦争の経験者だけど最前線には行かず 終戦を迎えてしまったので幸いでした しかし内地で戦争へ向かう人達を支える人達 母も毎日竹槍の練習をしたり 校庭に野菜を植えて 食料の確保をしたり 国民全員が戦争の為に日本が勝つと信じて戦った 自分の事は自由が効かず御国の為に御国の為にと毎日頑張ったようです 戦争その物は悲惨で決して繰り返してはいけないことです があの頃の人達は今も贅沢を嫌い強く生きています 今の自分に真似の出来ない強さが有ります 現在の平和で裕福な生活が送れる事に本当に感謝しなくてはいけません 大変貴重な物を拝見出来感謝致します (2008年08月17日 23時49分58秒)
先日、大阪の実家に帰る途中に母親方の実家があった一身田に行って高田本山にある先祖の墓を参ってきました。
(※今は家がなくなっています) 俺に出来る事は学生の時に覚えた般若心経を唱えることのみ。墓は三つあり、一つは俺のじいちゃん、もう一つは代々の先祖の墓、もう一つは戦争で亡くなったじいちゃんの兄弟の墓です。 じいちゃんの兄弟は若くして亡くなっており、一人は19歳で東シナ海で魚雷により戦死。もう一人は、フィリピンにて空爆により死亡。 と、墓の側面に書いておりました。 リアル、実にリアルでした。 (2008年08月17日 23時52分08秒)
「丸」あった!あった!
あれのクロスワードパズルに応募してプレゼント当たったことある~。(笑) うちは陸軍の志願飛行兵だったから飛行機の絵は「隼」でした! 飛行機に乗りたくて志願したみたいよ。(^^;; (2008年08月18日 16時10分26秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>大変貴重な物を拝見できました >戦争の事実を風化させてはいけません > 読んでいただき、ありがとうございます。 >しかし戦争経験者が少なくなって生で話しを聞く事が難しくなって来ている現実 > 戦後63年、当時17才の人でも今は80歳。 ナマのお話を聞く事は難しいですね。 >僕の親父は戦争の経験者だけど最前線には行かず >終戦を迎えてしまったので幸いでした > 最前線じゃなくても、自宅に居ても戦争で亡くなった方は多くいらっしゃいます。 お父様はご無事でなによりでした。 >しかし内地で戦争へ向かう人達を支える人達 >母も毎日竹槍の練習をしたり 校庭に野菜を植えて >食料の確保をしたり 国民全員が戦争の為に日本が勝つと信じて戦った >自分の事は自由が効かず御国の為に御国の為にと毎日頑張ったようです > 国民のほとんどが自己犠牲を払い、お国の為に頑張っていたのですね。 もちろん老若男女問わず。。。 >戦争その物は悲惨で決して繰り返してはいけないことです >があの頃の人達は今も贅沢を嫌い強く生きています >今の自分に真似の出来ない強さが有ります >現在の平和で裕福な生活が送れる事に本当に感謝しなくてはいけません > その通りですね。 先人達のおかげで、今の私達の生活があるんです。 この平和も生活も、敗戦から力強く立ち直った先人達のおかげですね。 >大変貴重な物を拝見出来感謝致します ----- ありがたいお言葉、親父も喜んでいると思います。 ありがとうございました。 (2008年08月18日 19時42分54秒)
Re:墓参り(08/13)
>先日、大阪の実家に帰る途中に母親方の実家があった一身田に行って >高田本山にある先祖の墓を参ってきました。 >(※今は家がなくなっています) > 一身田に高田本山ありますね。 30年前、私がモトクロスやミニバイクレースをしていたのは、 高田本山から3分のレース場(見当山)でした。 >俺に出来る事は学生の時に覚えた般若心経を唱えることのみ。 >墓は三つあり、一つは俺のじいちゃん、もう一つは代々の先祖の墓、 >もう一つは戦争で亡くなったじいちゃんの兄弟の墓です。 > 般若心経を唱えられるって、すごい事です。 >じいちゃんの兄弟は若くして亡くなっており、一人は19歳で東シナ海で魚雷により戦死。 >もう一人は、フィリピンにて空爆により死亡。 >と、墓の側面に書いておりました。 >リアル、実にリアルでした。 ----- 若くして亡くなられたのですね。 戦争は将来ある若者の人生、夢、全てを奪い去る。 二度とあってはならない事。 戦死者の墓石には、出兵した日付・場所・亡くなられた状況が彫り込まれていますね。 私の曽祖父と伯父の墓石にも彫り込まれています。 (2008年08月18日 19時50分51秒)
Re[1]:戦争を知らない子供たち・・・父の空襲体験記(08/13)
>「丸」あった!あった! > お~~~~っ! 「丸」を知っていますか♪ >あれのクロスワードパズルに応募してプレゼント当たったことある~。(笑) > クロスワードパズル? そんなのがあったんや、知らなかった。。。 >うちは陸軍の志願飛行兵だったから飛行機の絵は「隼」でした! >飛行機に乗りたくて志願したみたいよ。(^^;; ----- お父様は命と引き換えに、夢を実現されたのですね。 命を残して、夢を実現されたのだから良かったです。 隼・・・ゼロ戦よりも洗練された機体、カッコイイです! (2008年08月18日 19時55分34秒)
>時雨ちゃんのお爺様は捕虜になられ、自決されたのでしょうか・・・
>最愛の家族に会えず、我が子よりも先に逝くなんて、 >さぞや無念だった事でしょう。 > ↑ 捕虜になった兵士達を助けに行って 半分ほど助けて戦死したそうです。 助けられなかった人たちは自害されたと聞いていますが・・・ その後の真実は分かりません(;_; 安易に、憶測だけで発言するのは 沢山の人を傷つけることになりますので 控えさせて下さい。 (2008年08月21日 22時33分14秒)
Re:ないすミドルさん(08/13)
>>時雨ちゃんのお爺様は捕虜になられ、自決されたのでしょうか・・・ >>最愛の家族に会えず、我が子よりも先に逝くなんて、 >>さぞや無念だった事でしょう。 >> >↑ >捕虜になった兵士達を助けに行って >半分ほど助けて戦死したそうです。 >助けられなかった人たちは自害されたと聞いていますが・・・ >その後の真実は分かりません(;_; > 時雨ちゃんのお爺様は捕虜の方を助けに行って、戦死されたのですか。 自分の身を挺して仲間を助けようとする、勇気ある行動に感服しました。 >安易に、憶測だけで発言するのは >沢山の人を傷つけることになりますので >控えさせて下さい。 ----- 配慮が足りませんでした、申し訳ありません。 私の憶測で沢山の人々を傷つけた事をお許しください。 (2008年08月21日 22時46分50秒) |
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