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カテゴリ:東海道てくてくトボトボ歩き旅紀行
見付学校訪問!
教室も覗く・・・ 「今,何読んでるんですか⁉」 「ニーチェです!」 男の子が静かに答えた。 「??」 「・・・授業中に話しかけないでください」 教科書から目を話さずに女の子は言った。 「ハイ,おっしゃる通りですね・・・」 見付学校では今日も真剣なまなざしの子どもたちが未来に向かって勉学に励む姿があった。 2011年3月10日・木曜日 昨日はカメラをぶっ壊した。今日はオレがぶっ壊れそうだった。 大池橋を渡って左折しようとした途端,アスファルトのゆるい曲線に足を取られ,左足が内側にグリッと反って,アッと思ったらそのまま右足では支えられず,腕から体をかばうように池見をとっさに取りながらぶっ倒れてしまった。 「あぁ~・・・・」 幸い車が居ず,いびつに口広がりの道だったことがよかった・・・。 すぐ立ち上がってチョンチョン跳び様子を見ながら足首に触ってみたりした。歩ける仕立てるし動けるけど挫いてしまっているのは確かなようだ。それはそれとしてモンドリウッテひっくり返ってしまうというのはどうだろう??かなり肉体的に老いぼれてしまっているんじゃないだろうか。 「ショックゥゥゥゥゥ~~~・・・」 袋井までの道がもうメタクソしんどかった。 浜松発7時26分の電車で掛川へ 昨日の交差点で“パシャッ!” 真新しい掛川城が! いやはや・・・という感がする。 平成6年(1994)に復元された。二の丸御殿と太鼓櫓はずっと現存していたものだ。 本当にこんな立派なお城が完成してしまうとは・・・見事 Y君のお父さんやY君自身もこの再建には深くかかわったことだろう 永禄12年(1569)に家康がここ掛川の城に入り,天下統一への道を歩み始めて行く。 天守閣を造ったのは山内一豊で,関ヶ原の後,土佐へ移封する。幕末の四賢侯と云われた容堂公に至るのだ。 花粉は飛んでいるが,さわやかな朝である。 昨日の後半はカメラで写真が撮れなくなってしまったが,携帯ではそこそこ撮影できた。そして心のシャッターを一杯切った・・・なんてことを宣っても,時が経つとその心のシャッターには何にも写っていなかったりするのだ。昨日のあのアンチャンのように,何も写っていないというのが現実なのだろう。 新しいカメラを使うのはやはり気分がいい。 掛川駅前でうしろ姿を・・・ 昨日寄らなかった天然寺から今日はスタートしようと思う ケイスベルト・ヘンミィ氏の墓がある。 鎖国時代にあって,長崎の出島だけがオランダ・中国との貿易の窓口だった。寛永10年(1633)からオランダ商館は毎年,使者を送って献上品を贈り,貿易通商の御礼言上した。寛政2年(1790)からは4年に一回となり,この時期に,ケイスベルト氏は将軍家斉に謁見した。その帰途,本陣林家に投宿している時,持病が悪化しこの世を去った。そしてそのままここ天然寺に葬られた。 墓は門の外にあり, 「あれ⁉」 と思った。蒲鉾型の西洋式のお墓である。きちんと弔ったということがわかる。 天然寺の門の外にある,というのにも意味があるのかもしれない 街道に戻って連尺の交差点から歩き始めた。 右手に円満寺があり,掛川城の蕗の門が移築されていた。 十九首塚があった。 天慶3年(940)の天慶の乱で将門が討伐され,首級を検視のため京都へ運ぶ途中,ここへ勅使が派遣され,検視が行われた。その後,十九の首級をきちんとこの地に葬ったのだという。 このあたりの地名も十九首になっていた。 国道1号線にいったん出る。左折し,大池橋の交差点に向かう ここではでにすっ転んでしまう 歩道のこのふっくらしたところで足を取られてしまったのである 気を取り直して,やおら立ち上がって,足の感覚を諮りながら歩いて行く すぐ横を車が通ってなくてよかった・・・ モチベーションがぐっと下がる・・・ 県道253号線を進んで行く “あいさつは 目から 口から 態度から”・・・という曽我小学校PTAの地区健全育成会が作った看板があった。 「いいですねぇ~・・・」 あいさつと返事ができる子が結局,スポーツも勉強もできる子になって行くのだ。 大人になってもあいさつも返事もできない輩が多数いる。そういうのに限って,平気で指導者面したりする。目は口ほどに物を言う。目は心の窓。言葉も態度も目がすべてを語っている時がある。 「従是岡津區 東掛川街約1里 西袋井街約1里」と刻まれた道標があった。 右手に善光寺があり,立ち寄ってみた。境内に仲道寺という寺もあった。 松並木が良い感じで続いていた。 「従是 和田岡村 本村を経て原谷村に通ず」 「是従 和田岡村 原谷村を経て森町に通ず 大正四年」 と刻まれたわかりやすい道標があった 松並木が街道気分を高めてくれる 富士浅間神社の一の鳥居 妙日寺が左手にある。 日蓮上人の父の供養塔がある。 片方だけ葉が出る“片葉の葦”が生えている。 正慶元年(1332)開基の古刹。日蓮上人の曽祖父政直から4代に亘ってこの寺があるところで暮らしていたという。重忠が源氏に与していたら,日蓮上人が生まれてこなかったことを考えると,なかなか歴史が一筋縄では和えられないということがよく理解できる。 袋井東小学校の所に久津部の一里塚跡がある。 秋葉山の常夜灯を見ながら進んで行くと大正4年(1915)建立の油山寺道標があった 右手に七ツ森神社がある。 巨木に育った椎の木は見事 “阿まはし”の碑があり,袋井の街に向かう新屋交差点の微妙な曲がり方・・・ 街道っぽいなぁ~・・・とうれしくなる しばらく行くと東本陣跡があった。 しばし休憩・・・ 落書きだらけやんけ 問屋跡や高札場跡を見ながら進んで行く。 東海道どまん中西小学校があった・・・袋井市立袋井西小学校だ。 その先に澤野医院記念館がある 居宅部分は安政の大地震の翌年(1855)に再建し,大正5年(1916)に洋館風にして,病棟は昭和9年(1934)に造られたようだ。 川井の交差点で県道413号線に合流する。 左手に木原の一里塚が見えて来る。 右手に許彌(こね)神社がある。 元亀3年(1572),信玄が木原に陣を張り,浜松城の家康が送った偵察隊と一戦交えることになってしまった,三方が原の戦いの前哨戦となった場所である。 境内に家康腰掛石があるので座ってみる。 その先左手に須賀神社があり,ここの楠のでっかさには参った!・・・と言いたくなる 樹齢500年だそうだ 菅谷陣屋の牢屋敷跡の案内板を見ながら太田川を渡り,三ケ野の信号を左へ進み,緑のトンネルのような仲を心地良く歩く 公会堂前を右へ進む いろんな石碑や案内板が密集している 遠州鈴ヶ森刑場がある。 「“鈴ヶ森”というのが代名詞になってしまっているのかなぁ⁉」 日本左衛門はここにその首を晒されたそうだ。 愛人は晒されたその首を引っ掴んで掻っ攫って行ったそうだ。 「愛強し!」 左が1号線・・・09年は左へ行った それを体が覚えていたのか,今日も右へ行くところを,2009年に導かれるように左へ行ってしまったそしてまた戻った足キツイ・・・ 富士見町の信号まで行って気付き,ヒョコヒョコまた戻ったのだ 見付宿にやって来た 東木戸跡があり,愛宕神社前に一里塚跡 花を飾ってくれているのがなかなかの心遣いだ 見付神社の境内をブラリ・・・ 境内に悉平太郎という犬の碑がある。 人身御供を要求する妖怪をこの犬が退治したそうだ。その喜びは裸祭りになったという。 矢奈比売神社の欅も立派 宿場を一望でき,しばし佇む 宣光寺がある。 家康が寄贈した梵鐘が飾られている。 身代わり地蔵・・・火消しの達人 元亀3年(1572),三方が原の戦いに敗れた家康が,ここに逃れて宿場に火を放った。ここの地蔵が逃げ惑う人々を助けるために,幼児に姿を変え,火を消して回ったという。その話を聞いた家康は地蔵さんに深く帰依したという 見付宿場通りに名所名物が紹介されていた 「学校のデザインもこんなふうにすれば中身も変わって来るんじゃないかなぁ~・・・」 「明治8年(1875)建設で5F建てなんだもんなぁ~・・・」 見付学校訪問 見附本陣 西坂町の交差点を左折し,1号線を横切り,左に膨らむ細道を進む。 すぐに天平通りに合流する。 その先に府八幡宮がある。 この楼門は寛永12年(1635)建立の県指定文化財だ。 遠江国分寺跡が右手に広がっている。 善導寺の楠を見に行く。樹齢700年だそうだ ジュビロ磐田所属メンバーの足型をそろえたモニュメントが飾られていた 演劇や相撲は手形であるやはりサッカーとなると手より足,ということなのだろう 偏平足の選手がいない,というのは,将来サッカー選手になれるかなれないか,という大切な判断基準の一つかもしれない JR磐田駅到着・・・“パシャッ!” 7時55分に掛川駅前からスタートし,14時過ぎ・・・6時間の“街歩き”だった 本日ここまで!・・・JR磐田駅発14時21分の電車に乗るって浜松へ 「今日は歩き始めてすぐに,ひっくり返ったりした割りには,まぁよく歩けたな」 ・・・そして夕刻,昨日買ったカメラの調子が悪くなり,浜松のビックカメラへ行く いらない画像を消去しようとしたらできない。 ただそれだけのことなのだが・・・。 朝,カードの初期化云々というのが画面に出て,でもいったんOFFにして電源を入れなおしたら,問題なく機能してくれた。 初期化しますか!?・・・ハイ・・・メモリーをすべて消去します・・・あかん・・・電源を切る・・・ちゃんと撮影できるようになった・・・でも消せない。 ビックカメラの店員さんに事情を話すと, ①同じ機種に私のメモリーを入れて試す・・・・・・・× ②他の機種に入れて試す・・・・・・・・・・・・・・〇 ③別のメモリーカードを私のカメラに入れて試す・・・〇 ④同じ会社の別機種で試してみる・・・・・・・・・・〇 ⑤私の一杯になっていてメモリーカードをこのカメラに入れて試してみる・・・× 原因はその会社のカードがこのカメラと合わないだけで,カメラもカードも問題はない。 だから他社のメモリーカードを買えば済むことだった。 カメラの交換も壊れていない以上できないとのことだし,カードはまだ何枚も撮れるので,消去できない・・・ということを受け入れれば問題はない。 「わかりました・・・」 消去できないメモリーを使って旅を続けることにした。 てなわけで,シャワー浴びて,一杯やって・・・とっとと眠ろう・・・ <2011年3月10日(木)の旅日記に,写真を編集・アレンジして,2020年5月6日(水)・記> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.10.15 19:41:13
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