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カテゴリ:思い出話
朝、風邪が多少よくなったかと思い、出勤前に軽くジョギングに出て帰ってきたら、動悸がおさまらず身体を起こしていられない。とても仕事ができる状態ではないので、会社に電話を入れて午前中はおとなしくベッドに横になっていた。
海外で一人暮らししていて病気になると、「仕事がある」ということがホントウにありがたく思える。ほんの10年前まで福利も厚生も保険もないアルバイト生活をアメリカでしていたオイラにとって、仕事が多かろうが少なかろうが病気で欠勤しようが毎月きまったサラリーが銀行に振り込まれるなんて、夢のようなハナシだ。 若きし頃世界を放浪して歩いたドイモイ氏の楽天日記に、「1日の稼ぎはチップだけのウエイトレスでえ~す。」というフィリピンの人の話が載っていたが、10年前27歳だったオイラは、アメリカの大学を卒業して職を求めニューヨークに引っ越したものの仕事が見つからず、仕方なくジャパニーズ・レストランで違法滞在者にまぎれてまさに「1日の稼ぎはチップだけ」という生活をしていた。 週休1日。午後4時~午前1時くらいまで。収入は、アルバイト連中で毎日山分けするチップのみ。土日は客の入りのよい時には1人あたり8-90ドル近いチップが稼げるが、平日はせいぜい50ドル。客の入りの少ないときなんて、山分けしたら30ドルくらいにしかならないこともあった。この月1000数百ドルの収入のうち、半分近い600ドルがアパートの間借り賃に消えた。ニューヨークでは狭いワンベッドルームのアパートでも1000ドルくらいはするので、ひとつのアパートを「リビングルーム」と「ベッドルーム」に住み分けて2人でシェアするのが一般的であった。 バイト先の店長は気性が激しかったので、気に入らないヤツは即日でクビになった。オイラの場合はアメリカの大学を出て期間限定の労働許可証を持っていたが、もともと違法でアルバイトしているほかの連中は従業員として登録されていないので「労働者としての権利」なんて存在しないし、ちょっとしたミスでもその場で解雇された。まさにサバイバル。オイラはそのレストランで「歴代2位」の期間となる6ヶ月間弱働いたが、6ヶ月目に常連のアメリカ人客と口論したためにクビになった。 その後オイラは、画家のアシスタントとか、日系の新聞の電話勧誘とかのアルバイトをしながら、労働ビザのスポンサーになってくれるまともな就職先を探した。 バイトの契約期限が切れて何も職がない時期がいちばんツラかった。求人に片っ端から応募するがナシのツブテ。たまに書類選考に通って面接にこぎつけても「不合格」が続いた。 違法労働者の群れに混じってレストランのバイトをするのはもうイヤだったので、ほかの比較的まともなバイトを探すも滅多に求人はない。貯金はついに100ドル(1万円)を切り、労働許可証の有効期限も迫ってくる。 そんな時に限って体調を崩す。カネを節約するために、牛乳とシリアルとか安売りの果物とか野菜ばっかり食っていたので、ちょっとしたことで風邪を引いたりした。 動けない。カネもない。まともに食うモノもない。職を得る見通しもない。大学時代と違って助けてくれる人も周りにいない。空笑いしながら、異国のベッドの上で熱と悪寒と空腹に耐え忍ぶ。 …などという生活を一度経験すると、その後就いた仕事で多少厳しい労働条件を提示されたりしても、何のギモンも湧いてこなくなるものだ。 「休日出勤…」「やります。」、「残業代出ないけど…」「いままでもらったこともありません。」、「あさってから海外出張…」「問題ありません。」 他人からは「奴隷根性」とか言われるかも知れないが、「荒野を飢えてさまよう一匹狼」に比べれば、毎日十分なエサを与えられる奴隷なんてよっぽどラクな身分に思えてしまう。 窓から昼の日光の差し入るベッドの中で、10年前を思い起こしながら「午後からは多少シンドくとも仕事に出よう」と思うオイラであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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