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カテゴリ:たわごと・仕事・愚痴
昨日の日記の続きだが、一人称に「俺」を使う男性が減っている一方で、自分のことを「オレ」とか「ボク」とか言う女性が増えているらしい。
ワタシの職場にもいる。さすがに仕事で「俺の休暇届にハンコをいただけますか。」とか言い出したりはしないが、独り言になると「あ、オレ、すっかり忘れてた~」とかしょっちゅう言っている。本人に聞いたところ、やはり「心の中の一人称」は「オレ」だそうである。ちなみにこの人は結婚していて子供もいる。 社会人ではあまり見かけないが、小学・中学・高校生で一人称が「ボク」な女の子をたぶんみんな1人くらいは見たことがあるのではないか。最初はフザケたり照れたりして「ボク」とか言っているのかと思うのだが、一貫して主語が「ボク」であることに気づく。多くの場合、必ずしも「男っぽい」女の子とは限らず、可愛い顔をしてちゃんとスカートを穿いていたりする。 これはワタシの持論なのであるが、動物と違って「男・女」というのが「文化的な記号」である人間界においては、「男性性」と「女性性」は言わば“同じ量”だけ存在して両極のバランスをとるようになっていて、ある文化において男性たちの男性度の“量”が減って女性度の“量”が増加すれば、女性の側の男性度が増加して自動的に両極のバランスを保つように仕組まれているのではないか...とかねがね考えている。 日本社会の男性の間に「“オレ”派」が減れば、女の間に「ボク」「オレ」人種が増えることは、この「文化内均衡仮説」を適用すれば、容易に理解できる。いわば、現代日本人男性の男性性は、女性に吸収されたのである。 「俺」という“幼児的”な一人称がキライなワタシは、「俺」を使う日本人男性が減って「“ボク”派」が増えることを歓迎しているし、日本人女性がいくら男性的になって日本人男性を凌駕するようになっても全然なんとも思わないのであるが、 しかし、元気で堂々とした日本人女性が増えている一方で、全般的に萎縮してしまっている現代の日本男児のことは、かねがねナンギに思っている。 こんな日本人男性に (矢沢)“永ちゃん”や(高倉)“健さん”のような男の中の男たちのせめて10分の1くらいでいいから、“男気”を呼び覚ましてあげられないものだろうか。 そこで、昨日日記を書きながら思いついたのが、以下に記す「一人称セラピー」である それは、いつも「私」や「僕」を主語にして喋るのに馴れてしまっている男性に、「俺」とか「ワシ」とか「オイドン」とかを主語にして喋らせる…という単純なものだが、単純な割に即効性は極めて高いと考えている。 たとえば、いつも自分を「ボク」と呼んでいる青年に、ためしに「オレ」と言わせてみる。それまでは、デートのたびに「あ~○○ちゃん、ボクと一緒にイッてー!」とか言っていたヤツが、主語を「オレ」にした途端“男”に目覚め、妻の子宮内に二打席連続で女児を仕込んだ心斎橋ワタル氏のように「うりゃ~!どうだ、俺様の暴れん棒は!」などと言い出したりするのである。 あるいは、いつもは「ワタシ」を主語にしている男に、「ワシ」と言わせてみてもいい。 それまでは上司や顧客の前でいつも「ワタシのような者にこんなお気遣いをいただいて…」などと平身低頭していた中年オヤジの口から、「おお~、ワシにそこまでせんでもよかったのにのお、苦しゅうない」…などと大富豪のトイモイ氏にような堂々としたセリフが飛び出すに違いない。 そして、それまでは自分の心の中に押し殺されていた“幼児性”や“エゴ”に満ちた野性的な側面が開放されることによって、「僕」や「私」の日常に戻った後も、そんな男性的側面は必要に応じて「スタンバイ」の状態にできるに違いない。ウソだと思ったら、ためしにいちど楽天日記の主語を「俺」とか「オレ様」で書いてみたらいい。まるで自分が書いたものとは思えないようなワイルドな内容になるであろう。 蛇足だが、この「一人称セラピー」はいろいろと応用が利くと思われる。 たとえば平民コンプレックスのあるヤツは「朕」を、体育会系コンプレックスのある虚弱な男性であれば「自分」を、じゃりん子チエコンプレックスのある奇特な人は「うち」を一人称に遣って喋ってみるといい。実現できなかった自分の側面が目覚め、円満な自己実現に一歩近づけるはずだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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