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カテゴリ:今日の出来事
カナダの自宅を出る前、喪主である父親から、孫を代表して「お別れの言葉」を用意しておくように電話で言われた。弔辞のほうはもちろん喪主の父親である。 生前のオレの祖母さんと言えば、知人たちが思い起こすのは、まだ幼かった孫のオレの手を引いて歩く姿であろう。 バアさんは歌に踊りに仕事(保険の外交だの呉服の下請けだの)に活動的で、いつも外出していた。共働きの両親に代わってオレの母代わりをしていたバアさんは、いつもそれらの活動の場に、幼いオレの手を引いて同行していたのだ。 オレは高校を卒業して以来、実家にはあまり帰らなかったので、成人して渡米した以降のオレを見たことのある人はあまり多くない。だから、バアさんへの「お別れの言葉」を機会に、あの幼な子がこんなリッパな中年オヤジになりました、というのを世間に示す意味もあるのだろう。 オレは、「お別れの言葉」はやっぱり忌野清志郎とマイケル・ジャクソンに言及するところから入るべきだろうと考えた。 というのも、バアさんの死は、1ヶ月ちょい前の忌野清志郎、2週間前のマイケル・ジャクソンに次いで、歌って踊れる人気者の死として、うまく符合しているからだ。バアさんの訃報を聞いたバアさんの知人の中で、オレと同じことを考えたヤツがきっといるはずだ。 もちろん、日本や世界のスターと「町内の人気者」という大きな差はあるが。 私の祖母は、下は2歳の乳幼児から、上は102歳のご長寿まで、実に年齢の幅が1世紀に渡るたくさんの友達に、「×メちゃん」という愛称で親しまれていました。 忌野清志郎に次いでマイケル・ジャクソンが死んだと思ったら、今度は民謡や踊りの発表会、孫の学芸会への飛び入りと、その芸達者ぶりで知られた×メちゃんが死んだと聞いて驚かれた人も多いと思います。 祖母は私の母親代わりでした。 仕事で母親が不在のとき、お腹をすかして泣く赤ん坊の私に吸わせてくれた、何も出ない祖母の乳の感触を私はいまだに覚えています。母親の乳を吸った記憶がないのに、祖母の出ない乳のことは覚えているのです。あの出ない乳を吸わされたおかげで、私の顔の筋肉は異常に発達し、中年になっても弛むことのない、こんなに凛々しい顔になってしまいました。 お祖母様にはほんとうにあっちこっち引っ張って歩かされました。 商談の場から民謡の練習の場まで、祖母の横にちょこんと座らされ、祖母の用事が済むのを大人しく待っていたものです。本日ご参列いただいている祖母の知人の皆様も、生前の祖母を思い出すとき、人見知りがちで、祖母よりも頭がデカい大人びた顔つきの幼児(すなわち私)の手を引いている姿を思い起こされる方も多いのではないでしょうか。 祖母は両親と違って、私が心から信頼できる人でした。 中学時代、親に隠れて自室で喫煙していたのをお祖母様に見つかったとき、私は両親から厳しい叱責及び体罰を受けることを覚悟していました。驚いたことに、お祖母様は両親に告げ口しませんでした。しかし、告げ口をしなかった祖母の気持ちを思い、私は二度と自宅で喫煙すまいと決心したのでした。お祖母様はそんな懐の広い、男気のある人でした。 …オレは、そんな生前のエピソードを盛り込んだ「お別れの言葉」を考えていた。ちょっとしたユーモアにプッと吹き出す参列者も出てくるだろうが、まあ、祖母も喜んでくれるだろう。 しかし通夜の前日、ご本家の従兄が「お別れの言葉」に立候補した。葬儀屋に相談したところ、すでに曾孫であるオレの甥も「お別れの言葉」を読むことが決まっていたため、もし2人目を選ぶのであれば、直接の家族よりも親類の方がよいだろうということになった。 結局オレの「お別れの言葉」は、忌野清志郎とマイケル・ジャクソンのことが話題に上るたびにオレのお祖母様のことを皆に思い出させようという目論見は、ボツになった。 葬儀の日、従兄のお別れの言葉にはヒネリこそなかったものの、飾り気のないそのストレートな表現は、(意外にも)参列者たちの胸を打った。 『ぼくは、親戚中で、叔母さんが、世界でいちばん大好きでした!』という涙声に震えた力強い宣言を聞いた時は、オレも泣きそうになった。 オレは、ヘンな自意識や作為に満ちた自分のお別れの言葉に代わって、従兄が心のこもった誠実なお別れの言葉を読んでくれて、本当によかったと思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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