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カテゴリ:思い出話
先日の日記に対する風任氏のコメントを読むまで、腐ったものなどを食って腹を壊すことを「食あたり」ということをオレは知らなかった。親などが海産物などを食って「○○に当たる」という表現を用いていたのを記憶しているが、あの「当たる」というのは、それらの食材に含まれる細菌や毒に当たるという意味だったようだ。ためしに「食あたり」をキイワードにGoogle検索してみたら、食あたりは「食中毒」と同じ意味らしい。 オレには食中毒に絡む思い出がある。具体的にいうと、赤痢だ。 オレが大学時代に京都でバンドを演っていたころ、オレらと同様に京都のアングラ系ライブハウスを根城に活躍していた赤痢という名のギャル・バンドがあった。下手クソでルックスもイマイチなのだが、『夢見るオマン⊃』『ファツクしよう』といった露骨なタイトル&歌詞の曲をギャルが恥じらいもせずに演るのがウケて、オレらなんかよりはるかに多くの客を集めていた。この不良少女たちが自分たちのバンドに「赤痢」という名前を採用したのは、バンド結成当時京都の宇治で赤痢が流行っていたからだそうだ。 話が逸れた。オレの赤痢の思い出は、バンドの赤痢のことではない。オレの家族の赤痢の思い出である。 正確な年は覚えていないが、オレが幼稚園に入るか入らないかくらいの年の頃、オレと父親を除くオレの家族、すなわち祖母と母と妹が赤痢になった。ちなみにオレはそれが赤痢であったことを後年になるまで知らず、単なる「食中毒」だと思っていた。なぜなら、世間体を気遣う親にとって「家から赤痢が出た」というのは恥であり、それが赤痢であったことを子供のオレに対してもずっと隠していたからだ。 誰にどんな症状が出たのかは覚えていないのだが、家族全員が検査を受けた結果、祖母と母と妹の3人が赤痢に感染していることが判明した。昼飯や夕食の一部を外食している父が罹患しなかったことは容易に説明がついたが、朝昼晩と祖母・母・妹と同じものを食していたオレだけがどうして罹患を免れたのかは謎であった。 で、その3人が措置入院することになった時、昼の間子供のオレが自宅に1人で残されるような事態を不憫に思った祖母と母は、オレも赤痢に掛かったことにして一緒に入院しようとオレにこっそりと提案してきた。オレはぜったいイヤだと言った。ウソがイヤだったのか、病院がイヤだったのか、自分でもよく覚えていないのだが、親の話によると、幼いオレは感情をあらわにして断固と誘いを拒否したという。 仕方がないので、彼女たちが退院するまでの間、オレの面倒を見てもらうために父方の祖母に来てもらうことになった。オレの実家は女系であり父は婿養子である。生まれた時から同居している母方の祖母と異なり、盆と正月の年2回くらいしか会うことのない父方の祖母に対しては「肉親」という感覚がなかった。だから、オレの感覚としては、父の母親が自分の息子及び(ついでに)その息子の世話にやってくる…という感じであった。 父方の祖母が家事をする我が家で、オレは借りてきた猫のようであった。肉親の感覚がない人が自分の住む家の家事をしていることに対する違和感がその一番の理由であったが、もう1つの大きな理由は、オレは父方の祖母が話す東北訛りのズーズー弁がしばしば理解できないのであった。祖母が孫であるオレに親しそうにいろいろ話しかけてきても、しばしば何を言っているのか分からないのだ。それは、帰宅した父親が祖母と話している際も同様であった。 祖母と母は、入院のために家を出る際、またオレが父親と一緒に3人の見舞いに出向いた際、何日くらいしたら退院して家に戻るかをオレに伝えていたと思う。しかし当時のオレはまだ「1週間」とか「半月」とかいった時間感覚が身についていなかった。だから、父方の祖母との生活がいつまで続くのかいまいちピンと来ないまま、かといって母と母方の祖母のことを特に恋しく思うわけでもなく、“借りてきた猫”状態の毎日をオレは送っていた。 そんなある日 --- その記憶は、傾いた日が縁側から差す光景とともに思い出されるので、たぶん昼下がりの、午後3時くらいの出来事だと思う --- 祖母はオレに耳かきを手渡し、耳垢を取るように頼んできた。今思えば、なつかない孫とのスキンシップを図ろうとしたのかも知れない。しかし、4~5歳に過ぎないオレは、他人の耳を掻いたことなどなかった。オレはよく分からないまま、祖母に言われるとおり、正座したオレのひざに頭を預けた祖母の耳におっかなびっくりしつつ耳かきを突っ込み、掻き出すような動作を試みた。 そのとき。祖母が小さな声を上げてビクンと動いた。祖母の耳孔から、ピンク色の血が出ていた。 詳細な記憶はないのだが、血が真紅ではなくピンク色だったことだけがずっと記憶に残っている。オレは祖母の耳を傷つけてしまったことに動揺し、凍り付いていた。祖母はちり紙(注.当時はティッシュペーパーなどなかった)で自分の耳を覆い、孫のオレに、大丈夫だ、幼い子供に頼んだ自分が悪いんだ云々といったことを言っていた。ちり紙がみるみるピンク色に染まるのを見て、オレは自分の仕出かしたことに恐怖した。 その出来事に関するオレの記憶はそこまでである。 オレは、もしかしたら祖母の鼓膜を破ったのかもしれないし、そのことをずっと気にしていたが、祖母がオレを叱らないように手を回したものか、父も、退院後の祖母や母も、その件について触れることも叱責することもなかった。だから、その後祖母の耳がどうなったのかはオレもよく知らない。 今思えば、血がピンク色というのもおかしな話である。しかし、あれはたしかにピンク色だった。この出来事を強烈に覚えているのも、出血させてしまったことと同じかそれ以上、血の色がピンクだったことに驚いたからなのである。光の加減でそう見えたのか、血以外の体液が混じって紅が薄まってそんな色になっていたのか、あるいは祖母の身体には実際にピンク色の血が流れていたのか、あるいは幼児のオレが受けたショックが知覚を歪めさせ血をそんな色に見せたのか、いずれかであると推察される。 いずれにせよ、祖母の耳孔から出てきた血のことはほとんどトラウマに近い強烈な印象を残し、以降、父方の祖母のことや、赤痢と聞くと、すぐにあのピンク色の血が想起されるのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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