人間の心は非常に大切です、菩薩界、如来界だから(1)
ここまでに成した全ての御神業を謹んで、K医師様、K医師様、T課長様、N校長様、H学年長様、Y学年長様、S学年主任様、S学年主任様、M学年主任様に御報告致します。 私は現実、肉体の摂理をしています。思いの摂理ではありません。思いというのは、言葉や行為にしなければ、現実にはなりません。だから、過去の善くない思いは反省して訂正する事ができます。他人が関わっていない事柄だから。 しかし、言葉に出してしまった事や行為してしまった事は訂正する事はできません。その結果の責任を永遠に取るしかありません。思いと、言葉、行為とは異なるのです。イエス・キリスト様が心の中で、「自分はユダヤの王である」といくら思っていたとしても、処罰される事はありませんでした。現実的にユダヤの王としての言葉、行為をし続けたから処罰されたのでした。現実をやったからです。革命行為は失敗したら死刑にされるのは世の常識です。イエス・キリスト様は革命をやろうとしたのでした。現統治体制に反逆するような事をした方は死刑にされています。反逆する者は生存を許されないのでした。それが統治するという事だと思われます。革命を起こす者を放置しておくわけにはいかないのでした。殺すか、収容するかと。 イエス・キリスト様は、現実否定でした。世の現実を悪と見たのです。要するに、革命です。自分の方が正しいと。しかし、世の賛同を得られませんでした。右側の強盗殺人犯の賛同だけ。世の賛同を得る為には、先ず、自分を確立する事です。その現実を見て、世の方々は、ついていくのでした。自分の現実を先に確立するしかないと思われます。絵に描いた餅は食べられないのです。私はそうします。現実になってから判断致します。現実になるまでは、判断を保留致します。これでないと、ついていけと言われても無理です。霊界は思いの世界だから、文鮮明様に騙されました。私は園の中央の木の実を食べないという下の地位を選択致しました。安全策を採りました。そして、やっぱり、文鮮明様は自己中心に陥りました。失敗致しました。-友へのメール- お金の現実が回復致しました。国民主権が現実だったのでしょう。対等な関係に戻りました。それでお伝えしたい事は、「永遠の未来に向かって生き続けましょう。この世の現実の地位を失ってしまう埋没神とならないように生きましょうという事です。言っている事理解してもらえましたか。一緒に頑張りましょう。」 友より。-引用開始-http://www3.cty-net.ne.jp/~aiai/daireikai/utyuu.htm わたしが感ずるところ、宇宙とは図にあるとおり、次元のちがう宇宙をも合わせて、約五千億光年の幅、広さをもつ球形の存在であるようです。 そして、五千億光年宇宙界にいたって、宇宙的波動(磁力、光、電波、引力など)エネルギーは極小波長となり、消滅するように感じられます。 ここで、さらに進んで図Eを見てください。これは、わたしの霊覚がとらえ得た、五千年億光年宇宙界をふくむ大霊界の様相を図の形にあらわしたものです。この大霊界から見れば、地球をもふくむ五千億光年宇宙界も、まことにアワ粒のような存在です。 そして、大霊界の火の壁を通りぬけたところに「天命界」が広がっています。 天命界の最上位には「命生界」と「命消界」という、まったく対照的な世界の存在があります。-引用終わり- 現状では、天命界の親神様が人類の親神様だと考えられます。という事は、粟粒のような存在である五千億光年宇宙界を越えていかなければ、親神様と対面できないという事です。里帰りができないという事です。サタン様の子孫となっている現状から、神様の子に復帰する瞬間が、天命界の親神様との対面だと私は思っています。それまでは成長期間と私は思っています。 即ち、天命界の親神様と対面するまでは、セックスをしないという事です。子供がセックスをしては拙いでしょう。私が私に対して、天命界の親神様と対面するまでは成人したという認定をしないという事です。私は成人式にも出ませんでした。慶大生としての自分に納得していなくて、共通一次試験を未練たらしく受けていたからです。大して努力もせずに。私には反抗期はありませんでしたが、自分を確立する為に時間がかかりました。私の反抗は、サタン様への反抗だけだったと思います。サタン様は私を支配しようとしましたから。女の子という者は生意気だったのでした。何で年上の私を支配しようとするのか。現実の実力が違い過ぎるのに。世の中、狂っていました。それでそれを陰でやらせていたサタン様の存在を見抜いて、神の子として対抗し続ける生き様が始まったのでした。 要するに、女は男の上でなければいけないという事です。上というのは、下の地位をやっているという事です。自分を背負っていない者が、上からものを言ってはいけないという事です。自分の上の地位をやっている者は女ではなくて、女の形をした男だという事です。要するにサタン。男を犯そうとしている存在です。サタンの女と間違ってセックスをしてしまうと堕落アダムにされてしまいます。堕落アダムはやがてサタン化して、処女を襲って、サタンにしてしまいます。自分がやられた事をやり返したと。こうやって、サタンが繁殖していくのです。人類の未来を犯し続けていくのです。勿論、先祖様の業。子孫は先祖様の業に従って生きているだけの存在だから。上の生き様になんかなるわけない。 上の生き様になる為には努力をしなければいけないわけです。その努力の徳分のエネルギーは何処からも来ないんです。現実があり得ない。子孫ができる事は欲望を我慢する事だけ。我慢はできるんです。上に行くのは無理。誰も自分の味方がいない生き様、孤立、孤独、続けられないんです、普通の人は、多分。やれる方は立派な御方だと思いますが、多分誰もやらない、やれない。 どういう事かというと、子孫は先祖様を絶対に救わないという事です。上の地位にならないのだから。上の地位、自分中心の生き様はどんどん地獄界を前進していくだけの生き様です。どんどん地獄の深いところに堕ちていってしまう。やるのは自分中心の御方だけでした。勿論、サタンをやるだけの事だから、人類に迷惑をかけるだけの存在に堕ちるだけです。親をやるわけない。当たり前の事です。皆、自分の利益にならない事できないのです。地獄の最奥にいらっしゃるサタン様が、人類の親様なのだから。親をやると地獄に行くのでできない。自分にとって得な事をすると、その分、地獄、上の地位に上がっていきます。 多分、ひたすら、為に生き続けて、下の地位に下がり続けていく、未来に前進していくのが生き続ける道だと思われます。男の立場から言うと、自分より下の地位にいる女としかセックスをしない。セックスをするのは下の地位に下がる為だから。要するに、自分の為に生きていない女の方とは離婚するという事でした。自分より上の地位の御方は女ではなくて女の肉体をしている男だから。自分の為に生きる事に生き甲斐を感じない女は自分の上の地位だから、そもそも結婚生活自体が成り立たなかったという事です。種馬にされただけ。神様、やっている事物凄いので。まあ、人類に試練ばっかりを与え続ける神様だから、人類も成長するのでしょうが。逆だったら、成長しないでしょう。 ボケッとしていると、どんどん自分中心の生き様をし続けて、現実の地獄に堕とされてしまうと。私も毎日、必死です。世の中の現実、不幸が一杯、一杯あるので。 私も修行生活長いですが、いまだに、毎日、毎日、修行をさせられ続けています。安住できない。安らかにならない。※安住…深い反省も無く、その境地にとどまること。(何に心を煩わされることもなく、そこに落ち着いて住む意にも用いられる。)Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997 前向きに生き続けている私には反省という言葉はありません。常に最善、ベストの生き方をし続けているから。反省というのは、高い境地にいるのに、行いが高くない方がなされるもの。私は思いと行いとは一致しているので反省する事無い。立派ではないから立派な事しない。立派な境地というのも先祖様の徳分だと考えられます。よくよく感謝してお返ししておかないと清算期が危ないと思われます。いつまでも徳分、貸してくれているわけではないから。利潤があがらない投資、回収するでしょう。自分の為にならない事は誰もしない。 東国原知事も、離婚して、子を捨てたという事は、おそらく、子が自分の為にならない存在だったという事だと考えられます。お笑いタレントと知事、どちらがより善い職業か、東国原様は、知事の方がより善い職業だと思った。元奥様の加藤和子様はそう思わなかった。東国原様は、妻子より、知事を選んだわけです。知事の方が善かったという事です。自分が損をする判断誰もするわけないから。 私にとっては大事です。結婚生活よりも、社会的地位の方が上であるという事だから。神様が結婚生活を主宰なされていない。人間を種馬としか扱っていない。夫婦は天宙の中心ではなかったのか。-引用開始-http://www5a.biglobe.ne.jp/~myouji/nibutu/musubi40.htm 日蓮上人は真の主師親(しゅししん)の徳をもった『法華経』の教主釈迦牟尼仏だけが、真の意味で本尊とすることができると考えましたが、文鮮明師の教えに三大主体思想というのがあり、それはまさしく主師親の三徳を教えるものなのです。 日蓮上人は、『開目抄』を次のような文章ではじめられます。 「それ一切衆生の尊敬すべき者三つあり。いわゆる、主・師・親これなり。」 主の徳、師の徳、父母の徳の三つを主師親の三徳といいます。三徳をそなえるといっても上下、尊卑があるのであり、いずれが最高の依帰すべき本尊であるのかを見極めねばならないと日蓮上人は言うのです。 そして、『法華経』の釈迦牟尼仏こそ、娑婆世界のわれらにとって、ほんとうの主であり、師であり、父母であるのであって、この主師親である『法華経』の釈迦牟尼仏によってはじめて、娑婆世界の衆生の救済が可能になるというのであります。 「三徳」という語は、多くの仏教大辞典に見えていますが、主・師・親という内容を解説しているのは、石田瑞麿著「仏教語大辞典」(小学館)と「日蓮辞典」宮崎英修著(東京堂出版)の2書ぐらいであり、しかも、それには日蓮上人の用例を紹介しているのみであります。このことは主師親の三徳という思想が日蓮上人独自の思想であることを示しているように見えます。つまりそれは法華経的精神を発揚したものなのであります。 この日蓮上人の主師親思想は、『法華経』譬喩品第3の、「三徳有縁の文」に由来しています。 今この三界は、みなこれ我が有なり(主徳) その中の衆生は、ことごとく是れ吾が子なり(親徳) しかも今この処は、もろもろの患難多し ただ我一人のみ、よく救護をなす(師徳) さて、文鮮明師の思想に「三大主体思想」というものがありますが、それは、まさにこの主師親の三徳そのものなのであります。「三大主体思想」という説教から、ほんの一部を抜粋させていただきます。