カテゴリ:イスラム/アラブ
・アサド政権は独裁体制だったのか?
シリアは多様な部族、地域、宗教、宗派が入り混じった国だ。 シリアの政治的対立は、この社会的亀裂に沿って行われてきた。アラブ民族主義のような超国家イデオロギーは機能しなかった。 部族、宗教と言った基準は、反体制派を細分化した。それらは、反体制派が自らの政治的影響力を高めるための「錦」として使用された。 少数派であるアラウィー派による権力の掌握が多数派の不満となっていたとされるが、実際には、そういった多様な部族、宗派への配慮無しには政権は存続しえなかった。 アサド政権は、議会や内閣に多様な勢力を網羅的に登用することで、支配体制に「民主化」「多元的性格」を与えようとした。 また、政権にとって危険な集団内の亀裂を強調、分断することで、相対的に支配力を強化した。 現在のB・アサド政権になってからは、NGOの設立により市民社会の建設を試みもした。 独裁体制としての面もあるが、シリア社会の複雑さを克服する方向性で動いていた(動かざるを得なかった)のがアサド政権だった。 ・西欧諸国にとっての利用価値の高さ シリアは、対イスラエル強硬路線を取り、東アラブの覇者として行動しようとした。 自国とイスラエルの関係だけではなく、他国とイスラエルの関係にも関わり、地域全体に影響力を及ぼした。 軍事的にはイスラエルに劣勢だったため、ハマス、ヒズボラ等を支援し、対イスラエルを「アウトソーシング」した。 一方で、イスラエルとの全面戦争は避けたいシリアは、過激派組織の暴走は抑え続けた。 シリアは、過激派組織の窓口となり、支援するとともに、「やりすぎ」を防止する役割も果たし、西欧諸国にとっても決して不都合なだけの国では無くなっていった。 今回のシリア革命、他国にとっては、「シリアが無くなったとして、誰がシリアの役割を引き継げるというのか?」これが根本的な問題だ。 ・シリアでの「アラブの春」 シリアへのアラブの春の波及は遅かった。アラブ民族主義として、一定の評価を国民から得ていたためだ。 デモも、最初から大規模だったわけではない。他国のデモの様子を報道で知った人々が、体制の腐敗を批判するために小規模なデモを行ったのが始まりだった。 デモは、当初、体制の打倒ではなく、あくまで体制内改革を要求していた。これに対し、アサドは厳格な対応を取った。その対応への反発として、デモが大規模化していき、連鎖反応で暴動へつながっていった。 革命は軍事化し、他国からの援助を通じ劣勢を打開しようとしたことで、反体制運動を外国に「扇動されたテロ」にしてしまった。 ・革命の「シリア化」 もともと多様な価値観があるシリアにおいては、反体制派も一枚岩ではなかった。 革命は、徐々に反体制派の政争の道具になっていく。反体制派は、体制転換の方法/転換後の国家像/主要な政治家同士の不仲、主導権争い等を理由に、内ゲバが繰り返された。 ・国際社会の対応 国際社会の対応は、革命を支持する国と、支持に消極的な国とで分かれた。 制裁決議を巡り、アメリカ等は「自国民保護の能力がない」ことを理由に介入しようとしたが、この理由で介入が可能であるという論理は、他国にとっても危険なものだった。 (この理由で介入されるなら、次はウチかも。。。という危険性) また、結局、諸国にとって最も良いのは、シリアが覇権主義を追えなくなる程度に弱体化し、一方で今までの役割は果たし続けることであって、根本的な体制崩壊ではなかった お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014/02/12 08:55:52 AM
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