ラオスの経済と政治
・ラオスの地理ラオスの経済を考える時、その地理的条件は外すことが出来ない。まず、内陸国であり、物資の輸送にコストがかかること。次に、人口が少なく、市場規模/労働者が少ないこと。最後に、人口が少ないことの裏返しで、土地が豊富であること。この三点が、ラオスを考える上で重要になってくる。・苦難の歴史-フランスによる占領ラオスは、他の東南アジアの国々の例に漏れず、西欧からの植民地支配を受けた。フランスのシャム協定により、ラオスの国境はメコン川等の地理的条件に基づいて決められた。なお、メコン川の西側(タイ)にもラオ族は住んでおり、現在では1500万人-2000万人のラオ族がタイに住んでいる。ラオスの人口は2012年時点で650万人なので、その約2.5-3倍となる。フランスは、ラオスの鉱物資源を目的としていたため、他の植民地で行ったようなインフラ(道路、通信、官僚制度、教育制度)の整備を行わなかった。ラオスに限らず、資源の豊富な植民地は、基本的には搾取されるだけであり、これは現在の経済開発にも影響を与えていると言われている。・苦難の歴史-ベトナム戦争「温和で平和を愛好するラオス人ほど、その身を襲った苦しみにふさわしくない民族は少ない。ベトナムとの間にある人を寄せ付けない山岳地帯と、タイとの国境を画する大河メコンに挟まれて、ラオスの人々が好戦的な隣国に望んだこのは、そっとしておいてもらうことだけだった」とはキッシンジャーの言葉だ。南北でベトナムは分断されていたため、北ベトナムのゲリラが南ベトナムへ移動するためには、隣国であるラオス、カンボジアを利用して迂回する必要があった。所謂ホーチミン・ルートである。このホーチミン・ルートを潰さなければ勝利は無いということで、アメリカはこの地域に約200万トンの爆弾を投下した。同時に、ラオス国内ではベトナムの支援を受けた共産主義派と、アメリカの支援を受けた王政派が内戦を繰り広げた。ラオスは、爆撃と30年に及ぶ内戦でボロボロになった。・苦難の歴史-共産主義の失敗結局、共産主義勢力が勝ち、社会主義国家の建設が開始される。しかし、これは直ぐに頓挫した。国有化や農業集団化が全く機能せず、農産物の生産量が急激に悪化していったからだ。例えば、コメの生産量は1975年に91万トンあったものが、その後施策が実行されるに従って、1977年には53万トンにまで一気に落ち込んだ。これを受け、早くも1979年には市場経済原理の一部導入が行われた。しかし、共産主義勢力が社会主義を否定してしまうことは、自らの正当性を否定することになるため、それはできない。そこで、社会主義国家は理想であり、現実的な目標は戦後復興で、その手段として市場経済を導入するとされた。・統治体制市場原理を導入したと言っても、根本的な統治方法は一党独裁であり、民主集中制だ。「個人は組織に従い、少数派多数に従い、下級は上級に従い、全党組織は党中央執行委員会の決議に従う」のが原則であり、それを実現するために外部統制(国家機関の外に党組織を作り、国家機関を監督)、内部統制(国家機関の内部に党組織を設置)、党による人事権の独占(党が人事権を掌握、党幹部と国家幹部の兼任)が行われている。実質的な最高権力機関は党の政治局であり、現在は11名が名を連ねている。11名の序列は大まかに以下の通りである。・経済共産党が市場原理を導入してから、ラオスの経済は安定的に成長してきた。1990年以降は4%以上、近年は8%近辺のGDP成長率となっている。経済成長の牽引役は鉱物資源、電力(水力発電)の輸出(主にタイ向け)、ゴム/トウモロコシ等の商品作物であり、どれも豊富な土地を活かしている。・近年の問題近年、経済発展に伴い、環境問題、土地の強制収用、保証金/代替地の不十分な提供、格差拡大、汚職/不正の拡大等を受け、党支配の正当性が低下している。これまでは、政治の安定→経済開発の円滑な実行→経済成長→党支配の正当性→政治の安定。。。という良いサイクルだったものが、近年では経済成長が格差/不満の拡大につながり、政治の不安定性をもたらしている。これを受け、2005年以降、政治改革が行われ、議会や選挙を通じ国民の不満をある程度反映させた政治が行われるようになってきている。中国もそうだが、独裁体制は決して暴力や強権的対応だけでは維持できない。国民の希望をある程度反映するという側面が無ければ、正当性は地に堕ち、政権自体を脅かすことになる。