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2022.12.25
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講話

先生に学ぶ 2 金元弼先生

  1981年ファミリー3月号

 

  

人を大切にする

 

 

先生は、新しい人が入ってくると、本当に丁寧に迎え入れてもてなされます。そして、その人の話が全部知っている話であっても、全部聞いてくださいます。夜遅くなってもかまわずに。その人に対しての待遇を怠らないのです。

なぜなら、先生は、その人が神の前で心を尽くした善の実績・功績を、ひじょうに大事にされるからです。たとえそういう実績を持っていない人であったとしても、その人の先祖が尽くした実績・功績を認めてくれました。

 

また、それもない人であっても、神が長年の間、その人を導くために尽くした神の心情がその人に残っている、そういう神の心情を受け入れてくれました。たとえまた、その人に何もない、堕落した人であったとしても、その人に残っている本心に対してその人を待遇する、ということを先生は忘れませんでした。

先生は、こういう人たちが来ますと、必ず良くもてなし、お金がなければお金をあげ、着物がない人には着物をあげ、いろいろと助けてあげました。先生は、神が人に対する以上に待遇してあげて、相手の人をわかってあげます。すると授受作用の原理によって、今度は、相手の方が先生をわかってあげなければならない段階に入ります。

もし、それができないときには、神がその人のすべての祝福を奪って、こちらの方に全部あげてしまうのです。自分の今までの功績を全部先生に置いて、自分はカラになって帰っていくことになるのです。神がないものから奪い取って、有るものにもっとあげるという話は、そこから起因するものです。そういう人を通じて、神様は私たちにどれほど御告するかわかりません。私たちも蹟かないように注意しなければなりません。皆さんも、兄弟に対しては先生のごとくに接し、たとえ相手が幼い人であったとしても、その人の口から出る言葉を、「神が私に何か御告をしているのではないか」と、慎重に聞く謙遜な心が必要であると思います。

皆さん、ダビデとサウルのお話、わかりますか。第一代の王様であったサウルは、サムエルによって油を注がれて王様になった人です。ところが彼は、神の御告を守りませんでした。その時に神の心は、サウルからダビデに移されました。ダビデは、サウルの部下として、ひじょうによく従って忠義を尽くしていた人です。サウルは、神の手が自分からダビデに移ったことをわかり、何回もダビデを殺そうとしました。そこでダビデは逃げ、ある大きな洞窟の中に身を隠しました。サウルはもう昔の自分の主君ではなく、今は敵のようになったのです。

ところでサウルは、そこまで追って来て、小憩のために、その洞窟に入ってきました。ダビデはひそかに彼の上着の一筋を切り取りました。サウルは気づかずに、洞窟から出ていきました。それでダビデは後ろから、「なぜ私を追いかけて殺そうとするのですか」と反問しました。そこでサウルは、ひじょうに改める心を持ちました。なぜなら、ダビデにとっては自分を殺すのにちょうど良い機会であったのに、自分を殺さなかったからです。

「お前を殺そうとする私を、なぜお前は殺さなかったのか」、「神が油を注いで王様としたその方を、どうして私が殺すことができましょうか」。ダビデにとってサウルは、自分を殺そうとする敵である立場だけれども、神の祝福した人であるから大事にしたのです。

ですから私たちも、神の祝福した人を大事にするという心がけが必要です。先生は、こういう足らない私たちでさえも、ひじょうに大切に心がけてくださっているのです。

今までは相手のことを何も知らずに、ただ平面的に見ていたとしましょう。普通の人だと思っていたのに、聞いてみれば、この人は王様の息子である、ということがわかりました。するとこの後は、その人に対する態度がどれほど変わっていくでしょうか。キッチンで働いている人がいたとしましょう。ところがある日、この人は、死にかかっていた人を救うために自分のすべてのものを投入して治してあげた、という過去を持っていることがわかったとします。すると、どんなふうに考えるようになりますか。

人を知るということが大事です。ただ見てくれだけで判断する、目に見えるものだけをみて知ろうとするのは良くありません。もっとも大事なものは、全部、心の中にあるのです。それは少しだけ表れているのです。だから目に見えることだけでは、その人の価値はよくわかりません。中に秘められていることを知って初めて、人の価値がはっきりとわかるようになるのです。

 

人の話を自分のものとする

 

私たちは、いろいろな先輩が、三十年、四十年、五十年の生涯をかけて積んだ証を聞く機会がよくあります。その人を通じて、神がどのように苦労なさったか、どのように導いてくださったのかを聞くのですが、その神を自分の神として受け入れることが、ひじょうに大事なことです。その人の幼い頃から今までの話を聞きますと、自分もその人と一緒に生まれて、一緒に育って今まできたような、親近感を感ずることになるのです。その人のことを何も知らないで会うのと、わかって会うのとでは、ひじょうに感じが違ってくるのです。

ですから、いろいろなお話を、その人の話としてではなく、自分のこととして受けとるようにしてほしいのです。そういう人は、御告を受ける人よりも、もっと大事なことをすることができます。

ィエス様が亡くなってから復活されて弟子たちに現れたとき、ある者は「イエス様だ」、ある者は「ちがう」と言いました。その中でも、ひじょうに疑った者がトマスでした。それでイエス様は自分の傷を示して、なんと教えましたか。(ヨハネ20・27)

それと同じく、直接に御告を受ける人は、見る者と同じで、人の話を聞いて信ずる人は、見ないで信じる人と同じです。そうすると、御告を受けないでも人の話を聞いて、それを自分に御告するものであるとして聞いた人を、神は、そして誰もが、信仰ある者としてみるでしょう。

 

恨みを解く

 

神様は、六千年の歴史を、縦的な歴史を、横的に全部復帰する摂理をなさいます。先生は、「統一教会の同じ食口であったとしても、それぞれに、楽に行く人もあれば、ちょっと難しく行く人もある。さまざまな人がある」ということをおっしゃいました。そして、「統一教会のメンバーの中には乞食もあるんだよ」と言われました。

というのは、今まで歴史的な人たちがたくさんいたでしょう、それを蕩滅復帰させる道があるからです。その人たちの解放をする、そのための人もいるというのです。

この世にいて、乞食の生活をする人がいるとします。神様やメシヤは、私たちを救うために食べるものも食べられないでおられるので、その人にあげられるものは何もありません。それで、「神様は、ちっともわかってくれない」と言って、その人はお腹の減った生活をするのです。

そして、感謝できないでそのまま逝ってしまうと、恨みが残るのです。自分のことを考えると、恨みが出ざるをえないのです。「なぜ自分だけが、このようにならなければならないのか。人々は皆、良い暮らしをしているのに。神様がいるとするならば、なぜあの人はああいう生活で、私だけがこのように惨めな生活をしなければいけないのか」と、

自分の親を恨んだり、神様を恨んだりするのです。自分のことだけを考えてみるから、そうなるのです。

その人は、なぜ乞食になったのでしょうか。働かないからです。奉仕をしないからです。そして自分がやりたいことは全部やってしまう。そのためには全部のお金を使ってしまう。やりたいことだけやって働かないので、お金が入らないのです。だから乞食になったのです。そして逝ってしまう。しかし、逝ってしまってから、わかるのです。

神様は、人間を救うために、乞食の生活をされているのです。先生も、乞食の生活をなさっていました。どのように惨めな立場におかれても、神に感謝して、神の栄光を称えていくならば、恨みは残りません。どういう惨めなときにあっても、神に対して感謝する心が出てくるでしょう。「神様もこういう生活をしたのだ」と考えるとき、かえって自分の立場を通して神を慰めることができるし、また、そのようにして神の心情をわかることができたことに対して、神に感謝する心が出てくるのです。だから、自分が乞食であったとしても、人に尽くしていくならば、絶対に恨みは残らないのです。

恨みをもって逝ってしまった乞食が悟ったときには、「すでに時遅し」です。体を持っていません。では、その恨みは、どのようにすれば祓うことができるでしょうか。それは、同じような乞食を通してです。その同じ乞食が心を入れ替えて、人のために尽くし、神と人に感謝する心を、喜びをもつことによって、初めて助けられていくのです。自分ではできなかった恨みが晴れていくのです。

ですから私たちが、恨みをもって霊界にいる人と同じ立場に立って、その人が苦しんだ、そういう苦しみを、神と真の親を中心として感謝して受けていくことによって勝利してこそ、そういう人たちは全部解放されていくのです。その人たちが自分一人でできなかったものを、やってあげるわけです。それで解放されていくのです。

考えてみてください。ある人がサタンと戦います。そして負けたとします。その代わりの人が立って、戦いました。ところが、また負けました。その負けた人の代わりに、また一人が立って戦いました。この人たちは同じ目的でやっているのです。サタンと戦います。負けました。今度は、またこれを受け継いでもう一人が現れ、戦い、負けました。こういうことが続けられ、十人目の人が戦って勝利しました。すると、この十人の人たちはそれぞれ人は違いますが、サタンと戦うというみ旨を中心としてみると、この十人の人は、同じ人なのです。

勝利できなかった恨みをもった人たちは、この最後の勝利した人によって、恨みが全部晴らされていくのです。自分が勝利したという立場に立っていくのです。

第一のアダム、第二のアダム、第三のアダムのことを考えてみてください。第一のアダムは失敗しました。第二のアダムも完全には成功しませんでした。それで恨みがあるのです。しかし、第三のアダムが勝利することによって、第一のアダムも第二のアダムも、「全部勝利した」という立場に立つのです。第一のアダム、第二のアダム、第三のアダムは 一つのアダムなのです。理解できますか。

 

そういう道を私たちは行っているのです。だからそう思うと、お互いを尊重しあう心も出てきます。

そのために一番大事なことは、先生のみことばに従っていくことです。先生のみことばを中心にしてやっていけば、全部が解かれていくのです。なぜなら先生ご自身が、すべての蕩減条件を立てられたからです。先生は、乞食の生活もされましたし、何もかも全部なさっています。ですから、そういう先生のみことばについていけば、私たちもそれを全部した、という条件が成り立つのです。

摂理に対する心構え

 

皆さん、私たちは今、360軒のホームチャーチ活動をしています。ヨーロッパに動員されているメンバーは、一人のメンバーを献身させてから帰るようにしましょう、と先生はおっしゃっています。こういうとき、先生だったら、どのようになさるでしょうか。「三月末までに一人だ」と言われたならば、たぶん先生は、「三月末までに三人をやりとげよう」と考えられるでしょう。これから本当に難しい使命が与えられたときには、常に、先生のような心をもっていけば、必ず勝利できると思うのです。

つまり、三次七年路程のことを聞くときには、そのことを考えるよりは、第二次の三次七年路程のことを考えるのです。先生の三次七年路程は八十一年ですが、私たちは第二次の二十一年路程を考えなければいけない、考えるべきであるというのです。八十一年になったらそれで終わりだ、という考え方をしないで、「これから第二次の七年路程、二十一年が続づくから、またやるんだ」という意気込みでいかなければならないというのです。その次は第三次、次は第四次、というようにして、神の願いが、地上天国がここで成就されるというまで、やっていかなければなりません。そういう心をもっていかないと、そこで終わってしまうのです。

先生がみことばを伝え始められた頃、多くの霊能者が「三年経つと、先生はすべてを明らかにされる」と御告を受け、お話ししてくれました。それで本当にそう信じていました。ところが三年になると、先生は牢に入られたのです。それで霊能者の中には、「自分は、神は三年後に現れる、と御告を受けたのに、なぜ現れないで牢に入るのだろう」と疑う人も出てきました。

御告を受けた霊能者自身が、「いや、これは私の受けた啓示がまちがっていたのではないか」と疑い始めたのです。そして心が教会から離れていってしまったのです。その霊能者たちには原理の基盤がなかったので、そうなったのです。

では、本当はどうだったのでしょうか。神の御告では「三年」と言いました。ですから本当は、そのみ言のごとくに、その御告を受けた霊能者たちが三年という運命の間に、全国民に、全世界の人々に、その御告を全部伝えて、自分のような人にしていくよう、働きかけなければならなかったのです。そういうことをしないで、ただ黙っていて、三年たてば成就するだろうと考えたのがまちがいだったのです。黙って座っているならば、十年たっても百年たっても成らないでしょう。

アダムとエバが神のみことばを聞き入れなかったため、その祝福、理想世界が成せなかった。そして六千年の歴史が続いてきたことを考えてみてください。皆さんが何もしないで黙っていて、それでなぜ可能であると言えますか。先生が「メンバーを三人献身させましょう」とおっしゃって、それを皆さんがやっていないのに、どうして皆さんは「できるのでしょうか」と聞くのですか。

人々は、ただ黙っていて、時が来れば成ると思うものです。それはまちがいです。親が子供に、「八時までに空港に来なさい。そうしたら、あなたはその飛行機に乗れるでしょう」と言いました。それで八時までに行きました。ところがチケットがなくて乗れませんでした。それと同じです。

時がくれば成るというのではないのです。準備された人は恵みを受けるけれども、準備されていない人は、時が来ても恵みを受けられないのです。準備された人は天国が来ますが、準備されていない人は、天国が来ても、天国を迎えることはできません。

ですから、約束した時が来たから成るという考え方はまちがっているということを、皆さん、わかってください。成し得た人にだけ時が来るのです。






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最終更新日  2022.12.25 18:38:09
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